日光街道は、江戸・日本橋から日光へ向かう五街道の一つです。江戸時代には幕府によって「日光道中」という名称が定められ、一般には日本橋から鉢石宿まで21の宿場が置かれていたと数えます。
日本橋から宇都宮宿までは奥州道中と同じ道筋を通り、宇都宮から日光方面へ分かれます。国土交通省によると、宇都宮宿までの17宿は日光道中と奥州道中の両方に属していました。
このページでは、日光街道の21宿を一覧で紹介するとともに、ルートや歴史、奥州道中との関係、現在残る旧街道の痕跡を解説します。
日光街道とは
日光街道は、江戸幕府が整備した五街道の一つです。江戸の日本橋を起点として北へ進み、日光へ向かいました。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 一般的な名称 | 日光街道 |
| 幕府が定めた名称 | 日光道中 |
| 種別 | 五街道 |
| 起点 | 日本橋 |
| 最後の宿場 | 鉢石宿 |
| 宿場数 | 21宿(数え方に異説あり) |
| 通過する旧国 | 武蔵国・下総国・下野国 |
| 奥州道中との関係 | 日本橋~宇都宮宿の17宿が同じ道筋 |
国土交通省は、日光道中を江戸から日光の鉢石宿に至る21宿の街道として紹介しています。
日光への道が重要性を増した背景には、江戸幕府による交通制度の整備に加えて、徳川家康を祀る日光東照宮の存在がありました。
「日光街道」と「日光道中」の違いは?
現在は「日光街道」という呼び方が一般的ですが、江戸時代に幕府が定めた名称は「日光道中」です。
草加市によると、正徳6年(1716)4月に幕府が五街道の呼称を定め、日本橋から草加を経て日光へ至る街道を「日光道中」としました。
ただし、名称が定められた後も呼び方が完全に統一されたわけではありません。現在も「日光街道」「日光道中」の両方が使われています。
本サイトでは、一般的な名称として「日光街道」を使用し、江戸時代の制度や史料上の名称を説明するときは「日光道中」と表記します。
「日光街道」と「旧日光街道」の違いは?
現在、江戸時代の日光道中の道筋を「旧日光街道」と呼ぶ例があります。
草加市では、かつての草加宿を通る道を「旧日光街道」と呼び、越谷市でも歴史的な道筋を「旧日光道中(旧日光街道)」と表記しています。
一方、「日光街道」という名称は、江戸時代の街道を指すだけでなく、現在の道路名として使われることもあります。国土交通省東京国道事務所は、東京都内を通る一般国道4号を「日光街道」と表記しています。
そのため、現在「日光街道」と呼ばれている道路と、江戸時代の日光道中の道筋がすべて一致しているわけではありません。草加市内のように、本来の日光道中の道筋が現在の主要道路から分かれ、旧道として残っている場所もあります。
日光街道21宿一覧
日光街道には、日本橋から日光へ向かう途中に21の宿場が置かれていました。宿場の順序と位置は、国土交通省の資料や『日本歴史地名大系』をもとに作成された「江戸宿場データセット」と照合しています。
| 番号 | 宿場 | 旧国 | 現在地 |
|---|---|---|---|
| 1 | 千住宿 | 武蔵国 | 東京都足立区・荒川区 |
| 2 | 草加宿 | 武蔵国 | 埼玉県草加市 |
| 3 | 越ヶ谷宿 | 武蔵国 | 埼玉県越谷市 |
| 4 | 粕壁宿 | 武蔵国 | 埼玉県春日部市 |
| 5 | 杉戸宿 | 武蔵国 | 埼玉県北葛飾郡杉戸町 |
| 6 | 幸手宿 | 武蔵国 | 埼玉県幸手市 |
| 7 | 栗橋宿 | 武蔵国 | 埼玉県久喜市 |
| 8 | 中田宿 | 下総国 | 茨城県古河市 |
| 9 | 古河宿 | 下総国 | 茨城県古河市 |
| 10 | 野木宿 | 下野国 | 栃木県下都賀郡野木町 |
| 11 | 間々田宿 | 下野国 | 栃木県小山市 |
| 12 | 小山宿 | 下野国 | 栃木県小山市 |
| 13 | 新田宿 | 下野国 | 栃木県小山市 |
| 14 | 小金井宿 | 下野国 | 栃木県下野市 |
| 15 | 石橋宿 | 下野国 | 栃木県下野市 |
| 16 | 雀宮宿 | 下野国 | 栃木県宇都宮市 |
| 17 | 宇都宮宿 | 下野国 | 栃木県宇都宮市 |
| 18 | 徳次郎宿 | 下野国 | 栃木県宇都宮市 |
| 19 | 大沢宿 | 下野国 | 栃木県日光市 |
| 20 | 今市宿 | 下野国 | 栃木県日光市 |
| 21 | 鉢石宿 | 下野国 | 栃木県日光市 |
旧国別では、武蔵国に7宿、下総国に2宿、下野国に12宿がありました。
日光街道は21宿?23宿?
日光道中の宿場数は、一般に21宿とされています。国土交通省も21宿としており、本サイトでもこの数え方を採用しています。
一方、足立区立郷土博物館では、千住宿から鉢石宿までを「23の宿場」と説明しています。
この違いに関係するのが徳次郎宿です。宇都宮市観光公式サイトによると、徳次郎宿は下徳次郎・中徳次郎・上徳次郎からなり、「三宿で一宿」とされています。
つまり、徳次郎を一つの宿として数えるか、三つに分けて数えるかによって宿場数が変わります。
本サイトでは、下徳次郎・中徳次郎・上徳次郎をまとめて「徳次郎宿」とし、日光街道を21宿として整理します。
日光街道のルート
日光街道は、日本橋から現在の東京都、埼玉県、茨城県、栃木県を通って日光へ向かいます。現在の都県に置き換えると、次の順番です。
東京都 → 埼玉県 → 茨城県 → 栃木県
日本橋を出発すると、最初の宿場である千住宿を経て埼玉県東部へ入ります。そこから草加、越谷、春日部、杉戸、幸手、栗橋へと北上します。
栗橋から利根川を越えると、現在の茨城県古河市にあたる中田宿、古河宿へ入ります。その後は栃木県へ入り、野木、小山、宇都宮、今市などを経て日光へ向かいます。
21番目の鉢石宿は、日光山の門前に置かれた最後の宿場です。日光市の歴史年表では、正保4年(1647)に鉢石町が宿場になったとされています。
鉢石宿で道が終わるわけではなく、その先には日光山内があります。そのため、鉢石宿は「日光街道の終点」とするよりも、「21宿の最後の宿場」と表現する方が実態に近いといえます。
現在の国道・鉄道路線で見る日光街道
日光街道のルートを現在の道路に置き換えると、日本橋から宇都宮まではおおむね国道4号、宇都宮から日光までは国道119号に沿っています。
国土交通省も、江戸時代の日光街道を受け継ぐ現在の道路として国道4号と国道119号を挙げています。ただし、江戸時代の街道と現在の国道がすべて同じ道筋を通っているわけではありません。
道路の付け替えや河川改修、市街地化によって、旧道が現在の幹線道路から外れている場所もあります。
鉄道では、日光街道の全区間に沿って走る一つの路線はありません。区間ごとに見ると、千住宿から栗橋宿付近までは東武スカイツリーライン・東武日光線、栗橋宿から宇都宮宿まではJR宇都宮線が比較的近い経路を通っています。
東武日光線には杉戸高野台・幸手・栗橋などの駅があり、JR宇都宮線は栗橋・古河・小山・宇都宮などを結んでいます。
日本橋から宇都宮までは奥州道中と同じ
日光街道を理解するうえで押さえておきたいのが、奥州道中との関係です。日光道中と奥州道中は、日本橋から宇都宮宿まで同じ道筋を通っていました。
この区間には千住宿から宇都宮宿まで17の宿場があり、いずれも日光道中と奥州道中の宿場を兼ねていました。
宇都宮宿で道が分かれ、日光道中は徳次郎宿、大沢宿、今市宿、鉢石宿を経て日光へ向かいます。一方、奥州道中は白沢宿方面へ進み、さらに北へ続きます。
つまり、日光街道の21宿のうち、独自の区間にあるのは宇都宮宿より先の徳次郎宿・大沢宿・今市宿・鉢石宿です。
日光街道が整備された歴史
日光街道の成立には、江戸幕府による街道整備と日光東照宮が深く関わっています。江戸と日光を結ぶ道は、旅人や物資の移動だけでなく、将軍の日光社参にも使われました。
ここでは、日光街道が整備されていった流れを時系列で見ていきます。
江戸幕府による交通網の整備
江戸幕府は、江戸を中心に各地へ通じる街道や宿駅を整備しました。
国土交通省によると、慶長7年(1602)には宇都宮町に伝馬の負担が命じられています。
その後、元和3年(1617)に徳川家康を祀る東照宮が日光に造営されると、江戸と日光を結ぶ道は参詣路としても重要性を増していきました。
将軍の日光社参を支えた街道
日光街道が重要な役割を果たした行事の一つが、徳川将軍による「日光社参」です。
日光社参とは、将軍が徳川家康を祀る日光東照宮へ参詣する公式行事です。将軍だけでなく多くの家臣や関係者が同行するため、大規模な移動となりました。
古河市三和資料館によると、最後の日光社参となった天保14年(1843)の12代将軍徳川家慶の社参では、約14~15万人が日光道中を片道3泊4日で移動したとされています。
これだけの人数が移動するためには、街道沿いの宿場だけでなく、周辺の村々からも人馬や物資を集める必要がありました。
日光街道は旅人や物資が行き交う道であると同時に、幕府の大規模な公式行事を支える道でもありました。
日光杉並木は17世紀に整備された
日光周辺の日光街道には、現在も杉並木が残っています。
日光市の歴史年表によると、寛永2年(1625)7月25日に松平正綱が日光道中への杉の植樹を始め、慶安元年(1648)に完成しました。
現在の日光杉並木は、江戸時代の日光街道の姿を伝える代表的な遺構の一つです。
日光街道の宿場は役割や成り立ちが異なる
日光街道の21宿は、すべてが同じ性格の宿場町だったわけではありません。城下町を兼ねた宿場、河川交通と結びついた宿場、門前町として栄えた宿場など、それぞれに異なる特徴がありました。
たとえば栗橋宿は、宿場であると同時に利根川を渡る交通の要地でした。栗橋と対岸の中田を結ぶ「房川渡」があり、その付近には日光道中唯一の関所が置かれていました。
現在は一般に栗橋関所と呼ばれていますが、江戸時代には渡船場の名称から「房川渡中田御関所」と呼ばれていました。
古河宿と宇都宮宿は、どちらも城下町を兼ねた宿場です。特に宇都宮宿は、日光道中と奥州道中が分かれる重要な場所でもありました。
一方、最後の鉢石宿は日光山の門前に位置し、参詣者を迎える門前町としての性格を持っていました。
このように、日光街道の宿場は立地や周辺地域との関係によって、それぞれ異なる役割を担っていました。
日光街道は何km?資料によって距離が異なる
日光街道の距離は、資料によって異なる数字が示されています。起点や終点、経路の扱いが同じではないため、「日光街道は○km」と一つの数字だけで表すのは難しいのが実情です。
国土交通省の「道の歴史」では、日光道中の総延長を「40里18町(約130km)」としています。
一方、埼玉県の「日光街道埼玉六宿」では、日本橋から日光東照宮までを「36里3町2間(約142km)」としています。
この2資料は、示している終点も異なります。また、国土交通省が併記する「40里18町」と「約130km」は、里・町を一般的な換算値で単純に換算した距離とは一致しません。
そのため、本サイトでは一つの距離を確定値として示さず、資料に記載された距離とその条件を分けて扱います。
宿場間の距離についても同様です。江戸時代の史料に記された「○里○町」という距離と、現在の道路上の距離は別のものとして整理します。
日光街道21宿は規模にも大きな差があった
日光街道では、宿場ごとの家数や人口、本陣・脇本陣、旅籠数などの記録が残されています。こうした数字を比べると、同じ街道の宿場でも規模が大きく異なっていたことが分かります。
たとえば宇都宮市観光公式サイトでは、天保14年(1843)の宇都宮宿について、家数1,219軒、人口6,457人、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠42軒としています。
一方、同じ資料に掲載されている雀宮宿は、家数72軒、人口268人、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠38軒です。
宇都宮宿と雀宮宿だけを比べても、家数や人口には大きな差があります。一方で、旅籠数の差は家数ほど大きくありません。宿場の規模は、人口だけでなく街道上で担っていた役割も含めて見る必要があります。
ただし、江戸時代の統計は資料によって調査年代や数字が異なる場合があります。本サイトでは、個別の宿場ページを作成する際に自治体や教育委員会などの資料でも確認し、典拠とともに整理します。
現在も日光街道の痕跡は残っている
江戸時代の宿場町がそのまま残っている場所は多くありませんが、日光街道沿いでは現在も旧街道の痕跡を見ることができます。
街道沿いには、一里塚や道標、本陣・脇本陣跡、関所跡、寺社、古い商家、杉並木などが残っています。
埼玉県では、草加宿・越ヶ谷宿・粕壁宿・杉戸宿・幸手宿・栗橋宿を「埼玉六宿」として紹介しており、旧街道沿いの史跡を歩いて巡ることができます。
一方、市街地化や道路整備、河川改修によって、江戸時代の道筋が分かりにくくなった場所もあります。
そのため、現在の日光街道を歩く場合は、現在の道路だけでなく旧道の位置を確認しながらたどる必要があります。各宿場に残る史跡や旧街道の道筋については、個別ページで詳しく紹介します。
日光街道に関するよくある質問
最後に、日光街道についてよく調べられている疑問をまとめます。宿場数や起点、名称、奥州道中との関係などを簡潔に確認できます。
日光街道の宿場はいくつありますか?
一般的には21宿です。国土交通省も、日本橋から日光の鉢石宿までを21宿としています。
ただし、徳次郎宿を下徳次郎・中徳次郎・上徳次郎の三つに分けて数え、23宿とする資料もあります。本サイトでは徳次郎宿を一宿として扱い、21宿としています。
日光街道の起点はどこですか?
起点は江戸の日本橋です。
日本橋から千住宿、草加宿、古河宿、宇都宮宿、今市宿などを経て日光へ向かいます。
日光街道の最後の宿場はどこですか?
21宿として数えた場合、最後の宿場は鉢石宿です。
鉢石宿は日光山の門前に位置し、その先に日光山内があります。日光市の歴史年表では、正保4年(1647)に鉢石町が宿場になったとされています。
日光街道と日光道中は別の道ですか?
基本的には同じ街道を指します。
「日光道中」は正徳6年(1716)に幕府が定めた名称で、現在は「日光街道」という呼び方が一般的です。
日光街道と旧日光街道は違いますか?
まったく別の街道ではありません。
現在、江戸時代の日光道中の道筋を「旧日光街道」と呼ぶ例があります。一方、「日光街道」は歴史的な街道を指すだけでなく、現在の国道4号などの道路名として使われることもあります。
現在の道路と江戸時代の道筋はすべて一致しているわけではなく、かつての道筋が旧道として残っている場所もあります。
日光街道と奥州街道は同じ道ですか?
全区間が同じではありません。
日本橋から宇都宮宿までは、日光道中と奥州道中が同じ道筋を通ります。宇都宮宿から先で分かれ、日光道中は日光方面へ向かいます。
日光街道の距離は何kmですか?
資料によって異なります。
国土交通省は「40里18町(約130km)」、埼玉県は日本橋から日光東照宮までを「36里3町2間(約142km)」としています。
起点や終点、距離の扱いが資料によって異なるため、本サイトでは一つの数字を確定値としていません。
現在も日光街道を歩けますか?
旧道が残っている区間は、現在も歩くことができます。
ただし、市街地化や河川改修などによって旧道が失われた場所もあり、全区間で江戸時代と同じ道筋を歩けるわけではありません。
各宿場の個別ページでは、現在確認できる旧街道や史跡も紹介します。
日光街道21宿の個別ページ
日光街道の21宿について、本サイトでは宿場ごとに個別ページを作成しています。現在地や歴史、本陣・脇本陣、旅籠、現存する史跡などを宿場ごとに整理していきます。
千住宿 → 草加宿 → 越ヶ谷宿 → 粕壁宿 → 杉戸宿 → 幸手宿 → 栗橋宿 → 中田宿 → 古河宿 → 野木宿 → 間々田宿 → 小山宿 → 新田宿 → 小金井宿 → 石橋宿 → 雀宮宿 → 宇都宮宿 → 徳次郎宿 → 大沢宿 → 今市宿 → 鉢石宿
参考資料・典拠
この記事では、国土交通省や沿道自治体の公的資料を中心に、宿場の数や位置、日光街道の歴史を確認しています。
宿場の位置については、『日本歴史地名大系』をもとに作成された「江戸宿場データセット」も参照しています。
- 国土交通省「道路:道の歴史:近世の道」
- ROIS-DS人文学オープンデータ共同利用センター「江戸宿場データセット[R005 日光道中]」
- 草加市「草加の歴史」
- 足立区立郷土博物館「日光道中と千住宿」
- 埼玉県「日光街道埼玉六宿」
- 久喜市「栗橋関所」関連資料
- 古河市三和資料館「日光社参」関連資料
- 宇都宮市観光公式サイト
- 日光市「日光市歴史年表」
歴史資料では、宿場数や街道距離、人口などについて異なる記載がみられる場合があります。本サイトでは、一つの数字に無理に統一せず、確認した典拠とともに整理します。

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