千住宿(せんじゅしゅく)は、江戸・日本橋を出発して最初に置かれた日光街道・奥州道中の宿場です。
寛永2年(1625)に開かれ、現在の東京都足立区千住を中心に、のちには千住大橋を越えて荒川区南千住まで宿場が広がりました。
旅人や大名行列が行き交うだけでなく、河川を通じて多くの物資も集まり、交通・物流・商業の拠点として発展しました。2025年には開宿400年を迎えています。
千住宿は品川宿・板橋宿・内藤新宿とともに「江戸四宿」の一つに数えられ、その中でも特に規模の大きな宿場でした。
現在も旧日光街道沿いには、本陣跡や問屋場跡、江戸時代後期の商家などが残されています。
千住宿の基本情報
千住宿は日光街道・奥州道中の1番目にあたり、現在の東京都足立区から荒川区にかけて広がっていました。
まずは、宿場の規模や街道上の位置など、基本的な情報をまとめます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 宿名 | 千住宿 |
| 読み | せんじゅしゅく |
| 街道 | 日光街道(日光道中)・奥州道中 |
| 宿番号 | 1番 |
| 旧国 | 武蔵国 |
| 現在地 | 東京都足立区・荒川区 |
| 開宿 | 寛永2年(1625) |
| 家数 | 2,370軒 |
| 人口 | 9,956人 |
| 本陣 | 1軒 |
| 脇本陣 | 1軒 |
| 旅籠 | 55軒 |
| 次の宿 | 草加宿 |
| 関連街道 | 水戸街道・下妻道 |
| 主な最寄駅 | 北千住駅・千住大橋駅・南千住駅 |
足立区の資料では、『宿村大概帳』をもとに千住宿の家数を2,370軒、人口を9,956人としています。
ただし、人口9,956人の年代については、足立区の資料でも「天保14年(1843)頃」とするものと「天保15年(1844)」とするものがあります。
本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠55軒という数字も、『日光道中宿村大概帳』系統の資料で確認できます。
歴史統計には、資料によって年代や転記値に違いがみられる場合があります。そのため、本サイトでは数値だけでなく典拠もあわせて記録しています。
千住宿はどこにあった?
千住宿は現在の北千住駅周辺を中心とした宿場ですが、その範囲は現在「北千住」と呼ばれている地域よりも広く、千住大橋を越えて南千住方面まで続いていました。
開宿当初は千住一丁目から五丁目を中心としていましたが、交通量の増加にともなって掃部宿・河原町・橋戸町などが宿場に加わりました。
その後、千住大橋南側の小塚原町・中村町も加宿され、現在の荒川区南千住方面まで宿場が広がります。
荒川区の資料では、小塚原町・中村町が加わったことで、千住宿は南北約3kmに及ぶ宿場町になったとされています。
現在の行政区分で見ると、旧千住宿はおおむね次のような範囲に広がっていました。
荒川区南千住 → 千住大橋 → 足立区千住
なお、小塚原町・中村町が加宿された年代は、公的資料の間でも表記が異なります。本記事では特定の年を断定せず、宿場の範囲を中心に整理しています。
千住宿の成立と発展
千住宿が正式な宿場として整備されたのは寛永2年(1625)ですが、それ以前から千住は江戸と北関東を結ぶ交通上の重要な場所でした。宿場の成立には、千住大橋の架橋と日光道中の整備が大きく関わっています。
1594年に千住大橋が架けられる
文禄3年(1594)、徳川家康の命によって千住大橋が架けられました。
荒川区によると、千住大橋は家康が江戸に入ってから最初に架けた橋です。架橋当初は単に「大橋」と呼ばれ、万治2年(1659)に両国橋が架けられた後、「千住大橋」と呼ばれるようになりました。
橋が架けられたことで隅田川を渡る陸上交通が安定し、江戸から北関東・東北方面へ向かう道の重要性も高まっていきます。
1625年に日光道中の宿場となる
千住が日光道中の宿場として整備されたのは、寛永2年(1625)です。
足立区立郷土博物館によると、幕府はその前年の寛永元年(1624)に「日光山造営法度」を出し、江戸と日光を結ぶ日光道中の整備を進めました。翌年に千住宿が設けられ、街道沿いには短冊状の地割りが形成されました。
現在も旧日光街道沿いには、間口が比較的狭く、奥へ長く延びる地割りが残っています。足立区は、こうした「鰻の寝床」と呼ばれる区画が宿場町の特徴を現在に伝えていると説明しています。
千住宿は江戸四宿のなかでも大規模な宿場だった
千住宿は、江戸と各地を結ぶ街道の最初の宿場として発展しました。品川宿・板橋宿・内藤新宿とともに「江戸四宿」と呼ばれ、そのなかでも人口の多い宿場として知られています。
千住宿は東海道の品川宿、中山道の板橋宿、甲州道中の内藤新宿と並び、江戸四宿の一つに数えられました。
いずれも、日本橋から各街道を進んだときに最初に置かれた宿場です。
その中でも千住宿は特に規模が大きく、足立区は人口9,956人という数字を紹介し、「江戸四宿の中でも群を抜いていた」としています。
宿場では旅人を泊めるだけでなく、街道交通を支えるさまざまな業務が行われていました。
千住宿が担っていた主な役割は、次の通りです。
- 次の宿場へ人や荷物を運ぶための人馬の継立
- 大名や旅人の宿泊
- 幕府や大名の書状などの伝達
さらに千住宿では市場や問屋も発達し、宿場としてだけでなく、商業や物流の町としても栄えました。
千住宿は陸運と水運の結節点だった
千住宿の発展は、日光街道を通る陸上交通だけで説明できません。荒川や綾瀬川を利用した水運も盛んで、人だけでなく多くの物資が千住に集まりました。
足立区によると、橋戸河岸には当時の荒川(現在の隅田川)や綾瀬川を利用する船が発着し、米穀・野菜・陶器など、さまざまな物資が流通しました。
千住河原町には青物問屋も集まり、享保20年(1735)には幕府の御用市場として認められています。青物や川魚などを扱ったこの市場は、のちに「やっちゃ場」の通称で知られるようになりました。
このように千住宿には、街道交通・河川交通・市場という複数の機能が集まっていました。人だけでなく多くの物資も行き交う場所だったことが、千住宿の発展を支えました。
千住宿の本陣・脇本陣・旅籠
大名や公用の旅行者を受け入れる本陣・脇本陣、一般の旅人が利用する旅籠は、宿場を構成する重要な施設でした。千住宿にもこれらの施設が置かれています。
『日光道中宿村大概帳』系統の資料では、千住宿には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠55軒があったとされています。
ただし、本陣の数は時期によって異なります。
千住宿本陣
現在、足立区千住3丁目に「千住宿本陣跡」の標柱が残っています。
足立区によると、千住宿には初期には本陣が2軒ありました。享保19年(1734)の宿内伝馬図には、三丁目の市郎兵衛と四丁目の嘉左衛門の2軒に本陣の記載があります。
その後、四丁目の本陣はなくなり、市郎兵衛家1軒が本陣として残りました。
市郎兵衛家の屋敷は間口9間半、奥行38間、敷地361坪という大規模なもので、千住・草加・越ヶ谷・粕壁・杉戸の五宿本陣の総代を務めたとも伝えられています。
現在、本陣の建物自体は残っていません。
問屋場と貫目改所
宿場には宿泊施設だけでなく、人馬や荷物を管理するための施設も置かれていました。千住宿では問屋場と貫目改所がその役割を担い、現在も跡地を示す史跡が残されています。
現在の東京芸術センター前には、「千住宿問屋場及び貫目改所跡」があります。
問屋場は、次の宿場へ人や荷物を運ぶための人馬を手配する施設です。
千住宿では元禄8年(1695)に問屋場が設けられ、50人・50疋の人馬を用意しました。さらに寛保3年(1743)には、馬に積む荷物の重量を検査する「貫目改所」が設置されています。
足立区によると、日光道中で千住の次に貫目改所が置かれていたのは宇都宮宿でした。
2000年には足立区教育委員会が発掘調査を行い、現在の東京芸術センター前付近から建物跡を確認しています。これらは問屋場・貫目改所の遺構と推定されています。
千住宿は街道の分岐点でもあった
千住宿には日光・奥州方面へ向かう道だけでなく、水戸や下妻方面へ向かう道も集まっていました。江戸を出て最初の宿場であると同時に、複数の道が分かれる交通の要衝でもあります。
足立区立郷土博物館によると、千住付近では日光道中から次の道が分かれていました。
- 松戸を経て水戸へ向かう水戸街道
- 現在の茨城県下妻方面へ向かう下妻道
特に水戸街道については、国土交通省も「日光道中千住宿で分岐し水戸に至る」と説明しています。
現在も千住4丁目付近には、旧水戸街道の道筋が残っています。
千住宿は日光・奥州方面へ向かう人だけでなく、水戸や下妻方面へ向かう人にとっても重要な交通拠点でした。
現在の千住宿に残る旧街道と史跡
現在の千住は市街地化していますが、旧日光街道を歩くと、宿場町だったことを示す史跡や建物を各所で確認できます。
本陣や旅籠の建物は残っていないものの、千住大橋や商家、問屋場跡などから当時の街道をたどれます。
千住大橋
千住宿の南側に位置するのが千住大橋です。
その歴史は文禄3年(1594)の架橋までさかのぼります。
現在の千住大橋のうち、下り線側の鉄橋は昭和2年(1927)に架け替えられたものです。その後、交通量の増加に対応するため上り線側の橋も整備され、現在は2本の橋が並んでいます。
江戸時代の千住大橋は、歌川広重の「名所江戸百景」にも描かれました。
千住宿問屋場・貫目改所跡
足立区千住1丁目、東京芸術センター前にあります。
江戸時代に問屋場と貫目改所が置かれていた場所で、発掘調査によって建物の遺構も確認されています。
千住宿本陣跡
足立区千住3丁目にあります。
本陣の建物は現存していませんが、市郎兵衛家本陣があった場所に標柱が設置されています。
横山家住宅
千住4丁目の旧日光街道沿いに残る、江戸時代後期の商家です。
横山家は「松屋」の屋号を持つ地すき紙問屋でした。建物は昭和11年(1936)に改修されていますが、江戸時代後期の商家の姿を現在に伝えています。
街道に面した間口は約23.5m、奥行は約102mあります。間口に対して奥行が長く、宿場町に多くみられる細長い地割りも確認できます。
吉田家住宅・千住絵馬
千住4丁目には、江戸時代から代々絵馬を製作してきた吉田家があります。
吉田家が製作する小絵馬は「千住絵馬」と呼ばれ、その伝統が現在まで受け継がれています。足立区は、横山家住宅とともに、かつての問屋街の面影を伝えるものとして紹介しています。
千住宿と松尾芭蕉『奥の細道』
千住は宿場町として栄えただけでなく、松尾芭蕉が『奥の細道』の旅に出た場所としても知られています。現在も千住大橋周辺には、芭蕉の旅立ちにまつわる史跡があります。
元禄2年(1689)、芭蕉は深川から船で千住へ向かい、河合曽良とともにここから奥州・北陸への旅に出発しました。
千住大橋北詰の大橋公園には、『奥の細道』の旅立ちを記念した「矢立初めの句碑」が建てられています。
千住は、江戸を出る旅人を見送り、帰ってきた人を迎える場所でもありました。足立区は、芭蕉だけでなく伊能忠敬の測量隊も千住宿で見送りや出迎えを受けたと紹介しています。
千住宿へのアクセス
旧千住宿は南北約3kmに及ぶため、宿場全体を歩く場合は北千住駅だけでなく、千住大橋駅や南千住駅も利用できます。見たい史跡に合わせて駅を選ぶと歩きやすくなります。
宿場中心部・北側
- JR常磐線 北千住駅
- 東京メトロ日比谷線・千代田線 北千住駅
- 東武スカイツリーライン 北千住駅
- つくばエクスプレス 北千住駅
千住大橋周辺
- 京成本線 千住大橋駅
旧宿場南側・南千住方面
- JR常磐線 南千住駅
- 東京メトロ日比谷線 南千住駅
- つくばエクスプレス 南千住駅
千住大橋から旧日光街道を北へ歩くと、問屋場・貫目改所跡、本陣跡、宿場町通り、横山家住宅などを順にたどることができます。
前後の宿場
千住宿は日光街道の1番目の宿場です。江戸・日本橋から千住宿を経て、次の草加宿へと街道が続きます。
日本橋(起点) → 千住宿 → 草加宿
次の草加宿までは、『日光道中宿村大概帳』系統の資料で「2里8町」とされています。
→ 日光街道21宿の一覧を見る
→ 次の宿場:草加宿
千住宿に関するよくある質問
最後に、千住宿の場所や歴史、現在残る史跡について、よくある疑問をまとめます。
千住宿は現在のどこですか?
現在の東京都足立区千住を中心に、荒川区南千住まで広がっていました。江戸時代後期には千住大橋をまたぐ、南北約3kmの宿場町となっていました。
千住宿は日光街道の何番目の宿場ですか?
1番目の宿場です。江戸・日本橋を出発して最初に置かれた日光道中・奥州道中の宿場でした。
千住宿はいつできましたか?
寛永2年(1625)に日光道中の宿場として開かれました。2025年には開宿400年を迎えています。
千住宿の本陣は残っていますか?
本陣の建物は現存していません。現在の足立区千住3丁目に、本陣跡を示す標柱があります。
千住宿はなぜ栄えたのですか?
日光道中・奥州道中の最初の宿場であったことに加え、水戸街道などの分岐点でもあり、陸路と河川水運が交わる交通の要衝だったためです。
市場や問屋も発達し、江戸四宿のなかでも特に規模の大きな宿場へ成長しました。
北千住と千住宿は同じ範囲ですか?
同じではありません。
現在「北千住」と呼ばれる地域は旧千住宿の中心部にあたりますが、江戸時代の千住宿は千住大橋を越え、現在の荒川区南千住方面まで広がっていました。
参考資料・典拠
この記事では、足立区・荒川区などの自治体資料を中心に、千住宿の成立や規模、現在残る史跡を確認しています。
数値や年代について資料間で表記が異なる場合は、一つの説に統一せず、典拠ごとの違いを確認したうえで記載しています。
- 足立区「千住宿開宿四百年記念特集」
- 足立区立郷土博物館「日光道中と千住宿」
- 足立区「千住宿本陣跡」
- 足立区「千住宿問屋場及び貫目改所跡」
- 足立区「横山家住宅」
- 足立区「やっちゃ場」
- 荒川区「千住大橋」
- 荒川区「千住宿-開宿400年-」
- 『日光道中宿村大概帳』関連資料
- 国土交通省「江戸街道プロジェクト」
※歴史資料では、人口の調査年代や加宿年代などについて、公的資料の間でも異なる表記がみられる場合があります。


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