草加宿(そうかしゅく)は、江戸・日本橋から数えて2番目にあたる日光街道・奥州道中の宿場です。
江戸時代初期、千住宿と越ヶ谷宿を結ぶ新道の整備にともなって成立し、寛永7年(1630)に幕府公認の伝馬宿となりました。その後、参勤交代や日光社参、一般の旅人の往来によって発展し、天保14年(1843)には人口3,619人を数えています。
宿場の北側には、旧日光街道に沿って約1.5kmの「草加松原」が続きます。現在も本陣跡や旧街道、綾瀬川の舟運にまつわる史跡などが残り、宿場町だったころの歴史をたどることができます。
草加宿の基本情報
草加宿は、武蔵国足立郡に置かれた日光街道2番目の宿場です。天保14年(1843)の記録では、家数723軒、人口3,619人を数えました。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 宿名 | 草加宿 |
| 読み | そうかしゅく |
| 街道 | 日光街道(日光道中)・奥州道中 |
| 宿番号 | 2番 |
| 旧国 | 武蔵国 |
| 現在地 | 埼玉県草加市 |
| 幕府公認 | 寛永7年(1630) |
| 家数 | 723軒 |
| 人口 | 3,619人 |
| 本陣 | 1軒 |
| 脇本陣 | 1軒 |
| 旅籠 | 67軒 |
| 前の宿 | 千住宿 |
| 次の宿 | 越ヶ谷宿 |
| 主な最寄駅 | 草加駅・獨協大学前〈草加松原〉駅 |
『日光道中宿村大概帳』系統の記録では、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠67軒がありました。宿場の町並みは南北約12町に及んでいたとされています。
草加宿はどこにあった?
草加宿は、現在の埼玉県草加市中心部にありました。旧日光街道は現在の高砂・住吉・神明付近を南北に通り、そのまま北側の草加松原へと続いています。
草加駅周辺から旧日光街道を北へ進むと、大川本陣跡、清水本陣跡、東福寺、神明宮などがあります。さらに北へ進むと綾瀬川沿いの札場河岸公園に出て、その先に草加松原が続きます。
江戸時代後期には、宿場の町並みが南北約12町にわたって続いていました。現在は市街地になっていますが、旧日光街道の道筋は比較的たどりやすく残されています。
草加宿の成立と発展
草加宿は、千住と越ヶ谷を結ぶ新道の整備にともなって成立しました。慶長年間から道や宿場の整備が進められ、寛永7年(1630)に幕府公認の宿場となります。
1606年ごろから宿場の整備が始まる
江戸時代初期、千住から越ヶ谷へ向かう道は、八条や大相模方面を通って迂回していました。
草加市の資料では、慶長11年(1606)ごろ、宿篠葉村の大川図書を中心に草加宿の開設に向けた整備が始まったとされています。
その後、千住と越ヶ谷をより短い距離で結ぶ新道が整えられ、その道沿いに草加宿が形づくられていきました。
1630年に幕府公認の伝馬宿となる
寛永7年(1630)、草加宿は幕府から公認を受け、伝馬宿となりました。
当初は人足25人、馬25疋の伝馬役を負担していましたが、街道を行き交う人が増えるにつれて宿場も発展していきます。
参勤交代や日光社参に加えて一般の旅人も往来し、街道沿いでは商業も盛んになりました。草加宿は、交通の拠点であると同時に、周辺地域の商業を支える町としても発展していきます。
草加宿は日光街道でも規模の大きな宿場だった
草加宿は、江戸時代を通して家数や人口が増えていきました。天保14年(1843)には家数723軒、人口3,619人を数え、日光街道でも規模の大きな宿場の一つとなっています。
草加市の景観計画では、当時の草加宿について、千住宿・越ヶ谷宿・幸手宿に次ぐ規模だったと説明しています。
宿場では、旅人を泊めるだけでなく、次の宿場へ人や荷物を送る人馬の継立も行われました。こうした宿駅としての役割に加えて街道沿いの商業も発達し、多くの人が集まる町となりました。
草加宿は綾瀬川の舟運でも栄えた
草加宿の発展を支えたのは、日光街道を通る陸上交通だけではありません。宿場の東側を流れる綾瀬川などでは舟運が行われ、周辺で生産された農産物などが江戸へ運ばれていました。
草加市によると、綾瀬川や中川には荷物を積み下ろしする河岸が設けられ、多くの物資が行き交っていました。
草加宿は、街道と舟運の両方を利用できる場所だったのです。人だけでなく物資も集まったことが、宿場の発展を支えました。
現在の札場河岸公園は、こうした舟運の歴史を伝えるために整備された公園です。園内では、かつての河岸をイメージした船着き場の石段などを見ることができます。
草加宿の本陣・脇本陣・旅籠
草加宿には、大名や幕府の役人などが利用する本陣・脇本陣と、一般の旅人が利用する旅籠がありました。天保14年(1843)の記録では、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠67軒を数えます。
草加宿の本陣は、江戸時代を通して同じ家が務めていたわけではありません。大川家が本陣を務めた後、清水家へと引き継がれています。
大川本陣
草加宿では、享保年間(1716~1736)から安永年間(1772~1781)にかけて、宿篠葉村の名主だった大川家が本陣を務めました。
現在の草加市住吉1丁目には、大川本陣があった場所を示す「大川本陣跡石碑」があります。平成24年(2012)に建立されたもので、本陣の建物自体は残っていません。
清水本陣
安永年間以降は、大川家に代わって清水家が本陣を務めました。
大川本陣跡から旧日光街道を少し北へ進んだ住吉1丁目には、「清水本陣跡石碑」があります。こちらも平成24年(2012)に建立されたものです。
2つの石碑から、時期によって本陣を務めた家が変わったことを確認できます。
草加松原は日光街道を代表する松並木
草加宿の北側には、綾瀬川に沿って「草加松原」が続いています。現在も約1.5kmにわたって松並木が残り、旧日光街道の景観を伝えています。
松が最初に植えられた時期については、寛永7年(1630)の草加宿開設時とする説と、天和3年(1683)の綾瀬川改修時とする説があります。正確な植樹時期は分かっていません。
一方、現在確認されている古文書には、寛政4年(1792)に草加宿の人々が松苗1,230本を植えた記録が残されています。少なくとも江戸時代後期に松苗が植えられていたことは、史料から確認できます。
草加松原は昭和62年(1987)に「日本の道100選」に選ばれ、平成26年(2014)には国指定名勝「おくのほそ道の風景地 草加松原」に指定されました。
草加宿と松尾芭蕉『おくのほそ道』
草加宿は、松尾芭蕉の『おくのほそ道』に登場する宿場としても知られています。ただし、作品に書かれた旅程と、同行した河合曽良の記録から分かる実際の旅程には違いがあります。
元禄2年(1689)、芭蕉は河合曽良とともに江戸・深川を出発しました。船で千住まで進み、見送りの人々と別れた後、日光街道を北へ向かいます。
『おくのほそ道』には、その日に草加へたどり着いたことが記されています。
一方、『曽良旅日記』では、初日の宿泊地は粕壁宿、現在の埼玉県春日部市だったことが分かります。実際には草加宿には泊まらず、さらに先の粕壁宿まで進んだとみられます。
現在、札場河岸公園には松尾芭蕉像があります。草加松原には『おくのほそ道』にちなんで名付けられた百代橋や矢立橋もあり、芭蕉とのつながりを現在に伝えています。
現在の草加宿に残る旧街道と史跡
現在の草加宿周辺は市街地になっていますが、旧日光街道の道筋や宿場にまつわる史跡は各所に残っています。本陣跡や寺社、近代の商家をたどりながら北へ進むと、札場河岸公園や草加松原へ続きます。
大川本陣跡・清水本陣跡
旧日光街道沿いの住吉1丁目には、大川本陣跡と清水本陣跡の石碑があります。
どちらも本陣の建物は残っていませんが、江戸時代に本陣が置かれていた場所を現在に伝えています。
東福寺
神明1丁目にある東福寺は、草加宿の成立に関わった大川図書らによって建立されたと伝わる寺院です。
現在の本堂は文政7年(1824)に再建され、その後改修されています。山門や鐘楼、本堂の彫刻欄間などは草加市指定文化財です。
神明宮
神明1丁目にある神明宮は、元和元年(1615)に御神体を祀ったのが始まりとされています。
正徳3年(1713)に草加宿の総鎮守として現在地へ移されたと伝わり、現在の社殿は弘化4年(1847)に再建されたものです。
藤城家住宅
旧日光街道沿いの高砂2丁目には、藤城家住宅があります。
店舗は昭和初期、内蔵と外蔵は明治初期に建てられました。平成25年(2013)には、店舗・内蔵・外蔵が国の登録有形文化財となっています。
江戸時代の建物ではありませんが、旧街道沿いに残る近代の商家として、草加の町並みの変化を伝えています。
札場河岸公園
札場河岸公園は、草加松原の南端にあたる綾瀬川沿いにあります。
平成3年(1991)に整備され、かつての舟運を伝えるため、船着き場の石段などが復元されています。
園内には松尾芭蕉像や望楼があります。隣には、明治27年(1894)に造られた煉瓦造りの水門「甚左衛門堰」も残っています。甚左衛門堰は埼玉県指定有形文化財です。
草加松原
札場河岸公園からさらに北へ進むと、綾瀬川沿いに草加松原が続きます。
約1.5kmの松並木は遊歩道として整備されています。現在の草加で、旧日光街道の景観を感じられる代表的な場所です。
草加宿へのアクセス
旧草加宿の中心部を歩く場合は、東武スカイツリーラインの草加駅が便利です。草加松原まで歩く場合は、草加駅から旧日光街道を北上し、獨協大学前〈草加松原〉駅方面へ抜けると、史跡を順番にたどれます。
| 見学エリア | 最寄駅 |
|---|---|
| 旧草加宿の中心部 | 東武スカイツリーライン 草加駅 |
| 草加松原周辺 | 東武スカイツリーライン 獨協大学前〈草加松原〉駅 |
草加駅から北へ進むと、本陣跡、東福寺、神明宮、札場河岸公園、草加松原の順に歩くことができます。
前後の宿場
草加宿は日光街道の2番目の宿場です。江戸方面には千住宿、日光方面には越ヶ谷宿が続きます。
千住宿 ← 草加宿 → 越ヶ谷宿
『日光道中宿村大概帳』系統の資料では、草加宿から越ヶ谷宿までの距離は1里28町とされています。
前の宿場:千住宿
次の宿場:越ヶ谷宿
日光街道21宿の一覧を見る
草加宿に関するよくある質問
最後に、草加宿の場所や歴史、草加松原、松尾芭蕉との関係について、よくある疑問をまとめます。
草加宿は現在のどこですか?
現在の埼玉県草加市中心部にありました。
旧日光街道は草加駅付近から住吉・神明方面へ北上し、宿場の北側で草加松原へ続いています。
草加宿は日光街道の何番目の宿場ですか?
2番目の宿場です。
日本橋を出発すると、千住宿、草加宿、越ヶ谷宿の順に続きます。草加宿は日光道中だけでなく、宇都宮宿まで同じ道筋を通る奥州道中の宿場でもありました。
草加宿はいつできましたか?
慶長11年(1606)ごろから大川図書を中心に宿場の整備が進められ、寛永7年(1630)に幕府公認の伝馬宿となりました。
1606年ごろは整備が始まった時期、1630年は幕府公認の宿場となった年として区別できます。
草加宿の本陣は残っていますか?
本陣の建物は残っていません。
現在の草加市住吉1丁目に、大川本陣跡と清水本陣跡を示す石碑があります。
草加宿はなぜ栄えたのですか?
日光街道・奥州道中を通る参勤交代や日光社参、一般の旅人の往来に加えて、綾瀬川などの舟運を利用できたためです。
街道沿いでは商業も発達し、天保14年(1843)には人口3,619人を数えました。
草加松原は江戸時代からあるのですか?
草加松原は江戸時代に形成されましたが、松が最初に植えられた年代は分かっていません。
寛永7年(1630)とする説と天和3年(1683)とする説があります。一方、古文書では寛政4年(1792)に松苗1,230本を植えた記録が確認されています。
現在は国指定名勝「おくのほそ道の風景地」の一つです。
松尾芭蕉は草加宿に泊まったのですか?
実際の宿泊地は粕壁宿だったと考えられています。
『おくのほそ道』には、その日に草加へたどり着いたことが記されています。一方、『曽良旅日記』では、初日の宿泊地は粕壁宿だったことが分かります。
そのため、『おくのほそ道』に草加が登場することと、芭蕉が草加宿に宿泊したことは分けて考える必要があります。
参考資料・典拠
この記事では、草加市などの公的資料を中心に、草加宿の成立や規模、本陣、舟運、現在残る史跡を確認しています。宿場の規模や宿間距離については、『日光道中宿村大概帳』系統の資料も参照しています。
- 草加市「草加宿と日光道中」
- 草加市「草加歴史年表」
- 草加市『草加市景観計画』
- 草加市「おくのほそ道の風景地 草加松原」
- 草加市「草加松原遊歩道」
- 草加市「草加宿に関連する周辺の歴史的資源や施設」
- 草加市「札場河岸公園」
- 草加市「神明宮」
- 草加市「甚左衛門堰」
- 『日光道中宿村大概帳』関連資料
- 河合曽良『曽良旅日記』
草加宿については、宿場整備の開始を慶長11年(1606)ごろ、幕府公認の伝馬宿となった年を寛永7年(1630)とする資料があります。本サイトでは両者を区別して記載しています。
また、草加松原の植樹年代には複数の説があるため、成立年を一つに断定していません。松尾芭蕉についても、『おくのほそ道』の記述と『曽良旅日記』から確認できる実際の旅程を分けて記載しています。

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