粕壁宿(かすかべじゅく)は、江戸・日本橋から数えて4番目にあたる日光街道・奥州道中の宿場です。現在の埼玉県春日部市中心部にあり、春日部駅東口近くを通る「かすかべ大通り」が旧日光街道にあたります。
天保14年(1843)ごろには家数773軒、人口3,701人を数え、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠45軒が置かれていました。粕壁宿は宿駅としてだけでなく、大落古利根川の舟運を利用して米や麦などが集まる商業の町としても発展しました。
松尾芭蕉が『おくのほそ道』の旅で宿泊したことでも知られています。現在、本陣や旅籠の建物は残っていませんが、旧街道の道筋、本陣跡の標柱、明治時代の土蔵、古利根川の河岸跡などから、宿場町の歴史をたどることができます。
粕壁宿の基本情報
粕壁宿は武蔵国埼玉郡に置かれた日光街道の4番目の宿場です。まずは、街道上の位置や天保期の規模をまとめます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 宿名 | 粕壁宿 |
| 読み | かすかべじゅく |
| 街道 | 日光街道(日光道中)・奥州道中 |
| 宿番号 | 4番 |
| 旧国 | 武蔵国 |
| 現在地 | 埼玉県春日部市 |
| 現在地での町割り | 慶長16年(1611) |
| 統計年代 | 天保14年(1843)ごろ |
| 家数 | 773軒 |
| 人口 | 3,701人 |
| 本陣 | 1軒 |
| 脇本陣 | 1軒 |
| 旅籠 | 45軒 |
| 前の宿 | 越ヶ谷宿 |
| 次の宿 | 杉戸宿 |
| 主な最寄駅 | 春日部駅 |
家数・人口、本陣・脇本陣・旅籠数は、『日光道中宿村大概帳』を収録する『近世交通史料集』をもとにしています。
一方、春日部市教育委員会の案内では、嘉永2年(1849)の粕壁宿を人口3,779人、旅籠37軒としています。これは、天保14年ごろの記録とは異なる時点の数字です。本記事では、他の宿場と比較できるよう、基本情報表には天保14年ごろの数字を記載しています。
粕壁宿は現在のどこにあった?
粕壁宿は、現在の春日部駅東口付近を通る「かすかべ大通り」に沿って広がっていました。春日部市によると、宿場の町並みは南北10町25間、約1.1kmにわたって続いていました。
江戸方面の入口は、江戸時代に牛頭天王社と呼ばれていた現在の八坂神社付近です。そこから旧道を進み、新々田・三枚橋・新宿・中宿(仲町)・上宿(上町)などを経て、大落古利根川に架かる大橋、現在の新町橋付近へ至りました。
宿場内の通りは現在のかすかべ大通りと重なっており、現在も旧街道の道筋をたどれます。ただし、現在の国道4号とは経路が異なります。一宮交差点から直進する国道4号は昭和27年(1952)に開通した道路で、旧日光街道はかすかべ大通り方面へ続きます。
粕壁宿の成立は一つの年だけでは説明できない
粕壁宿の成立を考える際は、現在地とは異なる中世の「糟壁新宿」と、江戸時代にかすかべ大通り沿いに形成された宿場町を分ける必要があります。春日部市郷土資料館も、両者を分けて説明しています。
中世の「糟壁新宿」は現在の宿場とは場所が異なる
春日部市郷土資料館が紹介する高力清長の印判状写には、住民を集めて「糟壁新宿」を再建するよう命じた内容が記されています。
この文書の年代には天正18年(1590)説と慶長7年(1602)説がありましたが、郷土資料館は関係者の系図などから天正18年説を最有力としています。ただし、ここでいう糟壁新宿は、現在のかすかべ大通りではなく、元新宿・一ノ割付近にあった中世の宿駅と考えられています。
1611年に現在地の町割りが行われた
現在のかすかべ大通り沿いの町並みは、慶長16年(1611)に町割りされたと記録されています。このとき、六斎市も立てられました。
糟壁新宿の再建と、現在地での町割りは、場所も年代も異なります。そのため、本記事では「粕壁宿は○年に開かれた」と一つの年に決めず、1590年の糟壁新宿再建と1611年の町割りを分けて扱います。
「粕壁」はなぜ「春日部」になった?
「粕壁」と「春日部」は、どちらも「かすかべ」と読みます。現在の「春日部」は、「粕壁」を単純に改称して生まれた名称ではありません。時代ごとに「春日部」「糟壁」「粕壁」などの表記が使われてきました。
確認できる最も古い表記は「春日部」です。春日部市郷土資料館によると、延元元年(1336)の後醍醐天皇綸旨とされる文書に「下総国春日部郷」が登場し、その後の中世史料にも「春日部郷」という表記がみられます。
戦国時代になると、元亀4年(1573)の文書に「糟ケ辺」、天正17年(1589)の文書に「糟壁」と記されます。なぜ「春日部」から「糟ケ辺」「糟壁」という字に変わったのかは分かっていません。
江戸時代には「糟壁」が広く使われ、17世紀後半以降は「粕壁」という表記が増えていきました。日光道中の宿場名としても、次第に「粕壁宿」が定着します。
「粕壁」の由来については、宿場の土蔵の荒壁に関係するという説や、造り酒屋の酒粕に由来するという説があります。ただし、春日部市郷土資料館はいずれも確かな由来とはしていません。「かすかべ」という音に、読みやすい漢字を当てた可能性も指摘されています。
明治時代に町村制が施行されると、宿場町の区域は「粕壁町」となりました。再び「春日部」が自治体名に使われたのは昭和19年(1944)です。粕壁町と内牧村が合併して「春日部町」が誕生し、中世史料にみられる古い表記が復活しました。
昭和29年(1954)には、春日部町と武里村・豊春村・幸松村・豊野村が合併して春日部市が成立しました。その後、自治体名や駅名などには「春日部」が使われる一方、旧宿場周辺には「粕壁」「粕壁東」などの地名が残りました。
表記の流れを簡略化すると、次のようになります。
春日部郷(中世)→ 糟ケ辺・糟壁(戦国時代~江戸時代)→ 粕壁宿・粕壁町(江戸時代後期~近代)→ 春日部町・春日部市(1944年以降)
つまり、「春日部」は近代になって新しく作られた表記ではなく、確認できる範囲では「粕壁」より古いものです。現在は「春日部」が市全体を指し、「粕壁」が旧宿場を含む地区名として併用されています。
粕壁宿は市場を備えた商業の町だった
粕壁宿は、旅人の宿泊と人馬の継立を担うだけでなく、周辺から人や物が集まる商業地として発展しました。
宿場の江戸側にあった八坂神社は、当時は牛頭天王社と呼ばれ、粕壁宿の市神として信仰されていました。町では月に6回の六斎市が開かれ、周辺農村の農産物や江戸から運ばれた商品が売買されました。
宿場は伝馬役を負担する代わりに、屋敷地1万坪分の地子(土地にかかる税)を免除されていました。また、現在地で町割りが行われた慶長16年(1611)には、この六斎市が立てられた記録も残っています。
天保14年(1843)ごろには、家数773軒、人口3,701人を数えました。街道沿いには住宅のほか、米問屋などの商家、旅籠、飲食店が並びました。
古利根川の舟運が粕壁宿の発展を支えた
粕壁宿の特徴は、日光街道のすぐそばを大落古利根川が流れ、舟運を利用できたことです。街道と舟運の両方を利用できたため、米や麦などの農産物と生活物資の集散地となりました。
街道北側の商家は、間口が狭く奥行きの長い短冊状の敷地を持ち、その奥は古利根川まで続いていました。街道側に商業空間の「ミセ」、その奥に生活空間の「オク」や土蔵を設け、川岸に船を着けて荷物を上げ下ろしていたとされています。
現在の新町橋は、江戸時代には「大橋」と呼ばれた板橋でした。その上流には上喜蔵河岸と呼ばれる船着場があり、石垣の一部が現在も残っています。
春日部市教育委員会によると、古利根川の水量が増える旧暦6月中旬から8月中旬には、小型の高瀬船などを使い、米をはじめとする農産物や生活物資を運びました。舟運は一年を通して同じ条件で行われたわけではなく、川の水量に左右されていました。
粕壁宿の本陣・脇本陣・旅籠
天保14年(1843)ごろの粕壁宿には、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠45軒がありました。ただし、本陣を務めた家と場所は江戸時代を通して一定ではありません。
本陣は宿場内で複数回移転した
春日部市教育委員会によると、粕壁宿の本陣は関根次郎兵衛家、関根助右衛門家、見川家、小沢家、竹内家の順に移りました。
宝暦4年(1754)から見川家、文化6年(1809)から小沢家が本陣を務めました。嘉永2年(1849)には、それまで脇本陣を務めていた高砂屋竹内家が本陣となり、幕末まで続きました。
現在、本陣の建物は残っていません。かすかべ大通り沿いには、本陣が置かれていた場所を示す標柱が設置されています。
高砂屋竹内家は脇本陣から本陣になった
脇本陣は、当初、中宿の蓮沼屋庄兵衛が務めました。天保元年(1830)には、三枚橋付近で旅籠を営んでいた高砂屋竹内家が脇本陣となりました。
高砂屋は嘉永2年(1849)に本陣となりました。明治9年(1876)と明治14年(1881)の東北巡幸では、明治天皇の昼食所として使われました。建物は現存していませんが、脇本陣跡を示す標柱があります。
松尾芭蕉は粕壁宿に泊まった
元禄2年(1689)、松尾芭蕉と河合曽良は『おくのほそ道』の旅で江戸を出発し、日光街道を北へ進みました。
『おくのほそ道』には初日に草加へたどり着いたと書かれていますが、曽良の旅日記には「廿七日夜カスカヘニ泊ル」とあります。この記録から、旅の初日に粕壁宿へ泊まったことが分かります。
東陽寺には、芭蕉一行が宿泊したという伝承があります。ただし、曽良の旅日記には寺院名が記されていないため、宿泊先を東陽寺とまでは特定できません。
東陽寺には、曽良旅日記の原本にある文字を刻んだ石碑があります。粕壁宿での宿泊は日記で確認できますが、東陽寺での宿泊は伝承です。
現在の粕壁宿に残る旧街道と史跡
現在の粕壁宿周辺は春日部市の中心市街地となっています。本陣や旅籠は失われていますが、旧街道の道筋、宿場に関する標柱、商家の土蔵、古利根川の河岸跡などが残っています。
八坂神社
八坂神社は、粕壁宿の江戸側入口にあたります。江戸時代には牛頭天王社と呼ばれ、宿場の市神として信仰されました。
八坂神社の祭礼は、現在の春日部夏祭りの起源とされています。
東陽寺
東陽寺は、芭蕉一行が粕壁宿で泊まった寺と伝えられています。境内には、曽良旅日記の「廿七日夜カスカヘニ泊ル」という文字を刻んだ石碑があります。
東陽寺での宿泊は伝承ですが、境内の石碑は、芭蕉と曽良が粕壁宿に泊まった記録を現在に伝えています。
本陣跡・脇本陣跡
かすかべ大通り沿いには、本陣跡と脇本陣跡を示す標柱があります。
本陣・脇本陣の建物や門は残っていません。標柱が示すのは本陣・脇本陣が置かれた場所であり、現存建築ではない点に注意が必要です。
浜島家住宅土蔵
浜島家住宅土蔵は、旧日光街道沿いに建つ、かつての米問屋の座敷蔵です。明治時代前期には建てられていたと考えられ、黒漆喰塗りの外壁など、関東地方の土蔵造の特徴を備えています。
平成27年(2015)に国の登録有形文化財となりました。江戸時代の建物ではありませんが、旧粕壁宿で商業活動が近代まで続いたことを伝える貴重な建物です。
新町橋・上喜蔵河岸跡
現在の新町橋は、江戸時代に大橋と呼ばれた橋の位置にあります。橋の上流には上喜蔵河岸があり、船着場に使われた石垣の一部が残っています。
旧街道の近くに河岸跡が残っており、粕壁宿が街道と舟運の両方を利用していたことを現地で確かめられます。
春日部市郷土資料館
春日部市郷土資料館では、江戸時代後期から明治時代初期の粕壁宿を推定復元した200分の1模型を展示しています。
模型では、本陣・脇本陣・問屋場の位置、街道沿いに家々が並ぶ様子を立体的に確認できます。粕壁宿を歩く前に見学すると、宿場の範囲と町並みをつかみやすくなります。
粕壁宿へのアクセス
粕壁宿を散策する場合は、東武スカイツリーライン・東武アーバンパークラインの春日部駅東口が便利です。
春日部駅東口からかすかべ大通りまでは徒歩約5分です。旧宿場の町並みは約1.1kmですが、八坂神社、東陽寺、本陣跡、浜島家住宅土蔵、新町橋、郷土資料館などを巡る場合は、3kmほどの行程を見込むとよいでしょう。
旧日光街道は現在の国道4号と完全には一致しません。八坂神社付近からかすかべ大通りへ入ると、旧宿場の道筋を歩けます。
前後の宿場
粕壁宿は日光街道の4番目の宿場です。江戸方面には越ヶ谷宿、日光方面には杉戸宿が続きます。
越ヶ谷宿 ← 粕壁宿 → 杉戸宿
『日光道中宿村大概帳』では、越ヶ谷宿から粕壁宿までが2里30町、粕壁宿から杉戸宿までが1里21町とされています。
- 前の宿場:越ヶ谷宿
- 次の宿場:杉戸宿
- 日光街道21宿の一覧を見る
粕壁宿に関するよくある質問
最後に、粕壁宿の場所や成立、地名表記、松尾芭蕉との関係について、よくある疑問をまとめます。
粕壁宿は現在のどこですか?
現在の埼玉県春日部市中心部にありました。
春日部駅東口近くを通る「かすかべ大通り」が旧日光街道にあたり、八坂神社付近から新町橋付近まで約1.1kmにわたって宿場の町並みが続いていました。
粕壁宿は日光街道の何番目の宿場ですか?
4番目の宿場です。
日本橋を出発すると、千住宿、草加宿、越ヶ谷宿、粕壁宿、杉戸宿の順に続きます。粕壁宿は日光道中だけでなく、宇都宮宿まで同じ道筋を通る奥州道中の宿場でもありました。
粕壁宿はいつできましたか?
粕壁宿の成立を一つの年だけで説明することはできません。
春日部市郷土資料館は、糟壁新宿の再建を命じた文書の年代について、天正18年(1590)説を最有力としています。一方、現在のかすかべ大通りにあたる町割りは、慶長16年(1611)に行われました。本記事では、これらを分けて記載しています。
春日部市なのになぜ「粕壁宿」と書くのですか?
江戸時代の宿場名が「粕壁宿」だからです。
「かすかべ」は、中世には「春日部」、戦国時代から江戸時代には「糟壁」、江戸時代後半以降は「粕壁」と表記されました。昭和19年(1944)に粕壁町と内牧村が合併した際、古い表記である「春日部」が自治体名として復活しました。
現在は「春日部」が市全体を指し、「粕壁」は旧宿場周辺の地区名や住所として残っています。そのため、本サイトでは歴史上の宿場を「粕壁宿」、現在の自治体を「春日部市」と表記します。
松尾芭蕉は粕壁宿に泊まったのですか?
河合曽良の旅日記から、粕壁宿に泊まったことが確認できます。
東陽寺に泊まったという伝承もありますが、曽良の旅日記には寺院名が記されていません。そのため、日記で確認できる粕壁宿での宿泊と、東陽寺に泊まったという伝承は分けて扱う必要があります。
粕壁宿の本陣は残っていますか?
本陣の建物は残っていません。
かすかべ大通り沿いに、本陣跡と脇本陣跡を示す標柱があります。また、旧街道沿いには明治時代前期の浜島家住宅土蔵が残っています。
参考資料・典拠
本記事の執筆では、春日部市郷土資料館・春日部市教育委員会・埼玉県・文化庁などの公的資料を参照しました。
- 春日部市「日光道中と粕壁宿」
- 春日部市「粕壁宿ってどんなまち」
- 春日部市「宿場町って何があるの?」
- 春日部市教育委員会「日光道中粕壁宿~歩いてみよう道しるべ」
- 春日部市郷土資料館「謹賀新年・寅年の古文書」
- 春日部市郷土資料館「かすかべ地名の話(2)粕壁」
- 春日部市「ようこそ!郷土資料館へ」
- 埼玉県「日光街道埼玉六宿まち歩きリーフレット」
- 埼玉県「粕壁宿 歴史のみち景観モデル地区 景観まち歩き」
- 文化遺産オンライン「浜島家住宅土蔵」
- 国立国会図書館サーチ『近世交通史料集 6 日光・奥州・甲州道中宿村大概帳』
粕壁宿の成立については、戦国期の糟壁新宿と、江戸時代に現在地で形成された宿場町を区別しています。また、人口と旅籠数には天保14年(1843)ごろと嘉永2年(1849)の異なる記録があるため、両方の年代と数値を記載しました。

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