小山宿(おやましゅく)は、江戸・日本橋から数えて日光街道の12番目にあたる宿場です。現在の栃木県小山市中心部にあり、旧街道はJR小山駅西口から徒歩数分の場所を通っています。
奥州道中も宇都宮宿までは日光街道と同じ道筋を通るため、小山宿は両街道の宿場として利用されました。
天保14年(1843)ごろの小山宿には、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠74軒がありました。宿場内には、徳川将軍家の日光社参に使われた小山御殿も設けられていました。
また、小山には日光街道、壬生通り、結城道、佐野道、栃木道が集まりました。このため、小山宿は「五街道追分の地」と呼ばれる交通の要所でもありました。
現在は、小山宿脇本陣跡、小山評定跡、小山御殿広場、祇園城跡などを歩いて巡ることができます。
小山宿の基本情報
小山宿の所在地や規模など、基本情報をまとめます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 宿名 | 小山宿 |
| 読み方 | おやましゅく |
| 街道 | 日光街道・奥州道中 |
| 宿番号 | 12番 |
| 旧国 | 下野国 |
| 現在地 | 栃木県小山市宮本町・中央町・城山町周辺 |
| 家数 | 423軒 |
| 人口 | 1,392人 |
| 本陣 | 1軒 |
| 脇本陣 | 2軒 |
| 旅籠 | 74軒 |
| 統計年代 | 天保14年(1843)ごろ |
| 前の宿 | 間々田宿 |
| 次の宿 | 新田宿 |
| 最寄駅 | JR小山駅 |
家数や人口、本陣、脇本陣、旅籠の数は、『日光道中宿村大概帳』を典拠とする天保14年ごろの記録に基づいています。
小山宿は現在のどこにあった?
小山宿は、現在の小山市宮本町、中央町、城山町周辺を通る旧日光街道沿いにありました。
当時の日光街道は、おおむね現在の栃木県道265号粟宮喜沢線にあたります。街道沿いには南から下町、中町、上町が並び、このほかに横町と新町がありました。
本陣と脇本陣は、宿場の中心にあたる中町に置かれていました。現在の中央町2丁目付近です。
小山駅周辺は市街化されていますが、現在も「小山宿通り」の名称が使われています。旧街道沿いには脇本陣跡もあり、宿場の中心だった場所を確認できます。
前の間々田宿から小山宿までの歴史的な宿間距離は1里23町、約6.4kmです。小山宿から次の新田宿までは1里11町、約5.1kmありました。
小山宿は元和3年以降に宿駅となったと考えられている
小山は、江戸時代に宿場が置かれる以前から小山氏の本拠地であり、祇園城を中心に発展していました。
天正18年(1590)に小山氏が領地を失った後、慶長13年(1608)ごろには徳川家康の側近だった本多正純が小山に入り、小山藩が成立しました。
元和3年(1617)には、前年に亡くなった徳川家康が日光に改葬され、二代将軍徳川秀忠による日光社参が行われました。栃木県の観光資料によると、小山宿が宿駅に指定されたのは元和3年以降と考えられています。
元和5年(1619)に本多正純が宇都宮へ移ると、小山藩は廃止され、祇園城も廃城となりました。その後、小山は日光街道の宿場町として発展していきました。
小山宿は「五街道追分の地」だった
小山宿には、日光街道を中心として複数の道が集まっていました。
小山市の資料では、日光街道、壬生通り、結城道、佐野道、栃木道の5つが集まる場所として、小山宿を「五街道追分の地」と呼んでいます。
ここでいう「五街道」とは、東海道や中山道など、江戸幕府が整備した五街道のことではありません。小山周辺に集まる5つの道を表した地域の呼び方です。
壬生通りは、小山宿の北側にある喜沢付近で日光街道から分かれました。壬生や鹿沼を通り、今市宿付近で再び日光街道に合流する道です。
結城道は東の結城方面へ、佐野道と栃木道は思川を越えて西の佐野・栃木方面へ続いていました。
小山宿には、江戸や日光へ向かう旅人だけでなく、周辺地域を行き来する人や物資も集まりました。複数の道が結びついていたことが、小山の発展を支えたのです。
小山宿の本陣・脇本陣・旅籠
天保14年(1843)ごろの小山宿には、家数423軒、人口1,392人が記録されています。本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠74軒が置かれ、多くの旅人を受け入れていました。
本陣は小川家が務めた
本陣は、大名や幕府役人などが宿泊・休憩する施設です。
文化6年(1809)の記録では、小山宿の本陣を小川彦右衛門家が務めていました。本陣は、宿場の中心にあたる中町にありました。
小山市などの公的資料では、現在見学できる本陣の建物は案内されていません。
小山宿には脇本陣が2軒あった
脇本陣は、本陣だけでは宿泊者を受け入れられない場合などに使われた施設です。
小山宿には2軒の脇本陣があり、本陣と同じ中町に置かれていました。そのうちの一つを高橋家が務めました。
明治9年(1876)の東北・北海道巡幸では、旧脇本陣だった高橋家が明治天皇の行在所となりました。明治14年(1881)の巡幸でも、再び同家が利用されています。
現在、高橋家の前には「明治天皇小山行在所」と刻まれた石碑が建っています。
この場所は、小山市の散策地図では「小山宿郷本陣跡」、栃木県や小山市観光協会の案内では「小山宿脇本陣跡」と表記されています。本記事では、栃木県と小山市観光協会が使用している「小山宿脇本陣跡」の名称で紹介します。
旅籠は74軒あった
一般の旅人が利用した旅籠は74軒ありました。
宿場全体の家数が423軒だったことから、小山宿には多くの旅籠が集まっていたことが分かります。
小山宿を利用したのは、日光街道を通る人だけではありません。結城、佐野、栃木、壬生方面へ向かう人々も宿泊したため、小山宿は周辺交通の拠点としてにぎわいました。
小山宿に設けられた小山御殿
小山宿には、本陣とは別に、徳川将軍家の日光社参に使われた小山御殿がありました。
小山市の発掘調査報告書によると、小山御殿は元和8年(1622)、二代将軍徳川秀忠の日光社参に合わせて祇園城内に造営されました。
小山御殿は、慶長5年(1600)の小山評定を吉例として建てられたとも伝えられています。
御殿の周囲には堀が巡らされ、土塁が二重に築かれていました。敷地内には16か所の番所も置かれ、厳重に警備されていました。
四代将軍徳川家綱が寛文3年(1663)に日光社参を行った後、将軍による社参は長く中断します。その間に建物が台風で損傷したこともあり、小山御殿は天和2年(1682)に古河藩によって解体されました。
御殿の建物は残っていませんが、跡地は小山御殿広場として整備されています。広場では、発掘調査で確認された建物や堀、土塁の位置が舗装によって示されています。
小山評定と小山宿
小山評定は、慶長5年(1600)、徳川家康が小山に滞在していた際に開いたとされる軍議です。
家康は会津の上杉景勝を討つため北へ進んでいましたが、小山で石田三成挙兵の知らせを受けました。そこで諸将を集め、会津への進軍を中止して西へ向かうことを決めたと伝えられています。
その後、家康率いる東軍は関ヶ原の戦いに勝利しました。
ただし、小山評定が行われた慶長5年は、小山宿が宿駅に指定されたと考えられる時期より前です。そのため、小山評定は宿場成立以前の出来事として区別する必要があります。
現在の小山評定跡は、小山市役所の敷地内にあります。ここは祇園城の南側にあたり、後に小山御殿が造営された場所でもあります。
現在の小山宿周辺に残る見どころ
小山宿では、本陣や旅籠など、宿場時代の施設の多くが失われています。一方、脇本陣跡、小山評定跡、小山御殿広場、祇園城跡などを巡ると、小山の歴史を時代順にたどることができます。
小山宿脇本陣跡・明治天皇小山行在所
小山宿脇本陣跡は、小山市中央町2丁目の旧日光街道沿いにあります。
江戸時代には高橋家が脇本陣を務めました。明治9年(1876)と明治14年(1881)には、明治天皇の行在所として使われています。
現在、高橋家の前には「明治天皇小山行在所」の石碑が建っています。JR小山駅西口から徒歩約5分です。
見学者用の駐車場はないため、徒歩で訪れるのが便利です。
小山評定跡
小山評定跡は、小山市役所の敷地内にあります。
慶長5年(1600)に徳川家康が諸将を集め、会津への進軍を中止して西へ向かうことを決めたとされる場所です。現在は「小山評定跡」と刻まれた石碑が建っています。
小山市の指定史跡ですが、軍議が開かれた建物は残っていません。現在の石碑がある一帯は、評定が行われた仮御殿の推定地です。
JR小山駅西口から徒歩約10分です。
小山御殿広場
小山御殿広場は、小山市役所の北側にあります。
元和8年(1622)に造営された小山御殿の跡地で、祇園城の御殿曲輪にあたる場所です。
現在は芝生広場として整備されています。発掘調査で確認された建物、堀、土塁の位置は、色分けされた舗装によって平面的に示されています。
御殿の建物は復元されていませんが、現地では敷地の広さや建物の配置を確認できます。小山評定跡に隣接しているため、あわせて見学できます。
祇園城跡・城山公園
祇園城跡は、思川東岸の台地上に築かれた中世城郭です。現在は城山公園として整備されています。
祇園城は、鷲城、中久喜城とともに国指定史跡「小山氏城跡」を構成しています。園内には深い堀や土塁が残り、小山氏が本拠とした時代の様子を伝えています。
小山御殿は、祇園城の南端に造営されました。祇園城跡と小山御殿広場を続けて巡ると、中世の城郭が廃城となり、徳川将軍家の日光社参に使われる場所へ変化した歴史をたどれます。
JR小山駅西口から徒歩約10分です。見学できる範囲が変わる場合もあるため、訪問前に小山市の公式案内を確認してください。
須賀神社
須賀神社は、旧日光街道から西へ延びる参道の先にあります。
社伝によると、天慶3年(940)に藤原秀郷が京都の八坂神社から分霊を迎え、創建したとされています。小山六十六郷の総鎮守として信仰されてきました。
境内には、徳川家から奉納されたと伝わる朱神輿もあります。
旧街道に面した参道入口から社殿までは距離があるため、時間に余裕をもって参拝しましょう。JR小山駅西口からは徒歩約12分です。
小山宿へのアクセス
小山宿の最寄駅はJR小山駅です。東北新幹線、宇都宮線、水戸線、両毛線が乗り入れています。
旧日光街道や脇本陣跡へ向かう場合は、西口を利用します。
主な見どころまでの徒歩時間は次のとおりです。
- 小山宿脇本陣跡:西口から約5分
- 小山評定跡:西口から約10分
- 小山御殿広場:西口から約10分
- 祇園城跡:西口から約10分
- 須賀神社:西口から約12分
脇本陣跡、須賀神社、小山評定跡、小山御殿広場、祇園城跡を巡る場合は、見学時間を含めて1時間30分から2時間程度を見込むとよいでしょう。
いずれも小山駅の西側にあるため、徒歩で巡りやすい宿場です。
小山宿の前後の宿場
小山宿は、日光街道の12番目の宿場です。江戸方面には間々田宿、日光方面には新田宿があります。
間々田宿 ← 小山宿 → 新田宿
前の宿場:間々田宿
次の宿場:新田宿
日光街道21宿の一覧を見る
歴史的な宿間距離は、間々田宿から小山宿までが1里23町、小山宿から新田宿までが1里11町です。
小山宿に関するよくある質問
小山宿の場所や規模、現在見学できる史跡について、よくある質問をまとめます。
小山宿は現在のどこにありましたか?
現在の栃木県小山市宮本町、中央町、城山町周辺にありました。
旧日光街道は、小山駅西口から徒歩数分の場所を南北に通っています。宿場の中心は、脇本陣跡がある中央町2丁目付近です。
小山宿は日光街道の何番目の宿場ですか?
江戸・日本橋から数えて12番目の宿場です。
江戸方面から間々田宿、小山宿、新田宿の順に続きます。奥州道中も宇都宮宿までは日光街道と同じ道筋を通りました。
小山宿はいつ成立しましたか?
栃木県の観光資料では、元和3年(1617)以降に宿駅へ指定されたと考えられています。
小山は、それ以前から小山氏の本拠地でした。元和5年(1619)に小山藩が廃止された後、日光街道の宿場町として発展しました。
小山宿はどのくらいの規模でしたか?
天保14年(1843)ごろには、家数423軒、人口1,392人、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠74軒がありました。
日光街道をはじめとする複数の道が集まり、多くの人や物資が行き交っていました。
小山宿の本陣は残っていますか?
小山市などの公的資料では、現在見学できる本陣の建物は案内されていません。
旧脇本陣だった高橋家の前には、「明治天皇小山行在所」の石碑があります。この場所は、栃木県や小山市観光協会で「小山宿脇本陣跡」として紹介されています。
小山御殿と本陣は同じ施設ですか?
同じ施設ではありません。
本陣は、大名や幕府役人などが宿泊・休憩した宿場の施設です。小山御殿は、徳川将軍家の日光社参に使うため、祇園城内に設けられた専用の施設でした。
「五街道追分の地」とはどういう意味ですか?
日光街道、壬生通り、結城道、佐野道、栃木道の5つが小山周辺に集まっていたことを表す呼び方です。
東海道や中山道など、江戸幕府の五街道がすべて小山を通っていたという意味ではありません。
小山評定は小山宿で行われましたか?
小山評定が行われたとされる慶長5年(1600)は、小山宿が宿駅に指定されたと考えられる時期より前です。
現在の小山評定跡は、後に小山御殿が造営された祇園城南側の一帯にあります。小山宿と関係の深い出来事ですが、宿場成立以前の出来事として区別する必要があります。
参考資料・典拠
本記事の執筆では、小山市、栃木県、宮内庁、国立国会図書館などの資料を参照しました。
- 栃木県公式観光サイト「小山宿・脇本陣」
- 小山市「徳川家康ゆかりの地 小山評定と小山御殿」
- 小山市「小山市観光情報(歴史・文化スポット)」
- 小山市「小山市のあゆみ」
- 小山市「小山市文化財保存活用地域計画」
- 小山市「日光街道 小山宿 七福神めぐりMAP」
- 小山市観光協会「小山宿脇本陣跡」
- 宮内庁書陵部「明治天皇小山行在所」
- 国土交通省「道の歴史・近世の道」
- 越谷市デジタルアーカイブ「文化6年日光道中各宿本陣」
- 国立国会図書館サーチ『近世交通史料集6 日光・奥州・甲州道中宿村大概帳』

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