幸手宿(さってじゅく)は、江戸・日本橋から数えて6番目にあたる日光街道・奥州道中の宿場です。現在の埼玉県幸手市にあり、東武日光線の幸手駅から歩いて旧街道をたどれます。
幸手は日光街道が整備される以前から、鎌倉街道中道が通り、利根川水系の舟運も利用される交通の要地だったといわれています。江戸時代には日光御成道が合流し、宿場の北では筑波道が分岐する宿場町として発展しました。
天保14年(1843)ごろには家数962軒、人口3,937人を数え、本陣1軒、旅籠27軒がありました。現在も旧街道沿いには、岸本家住宅主屋などの歴史的建造物、本陣跡、問屋場跡、寺社が残っています。
幸手宿の基本情報
幸手宿は日光街道の6番目の宿場です。街道上の位置と天保期の規模をまとめます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 宿名 | 幸手宿 |
| 読み | さってじゅく |
| 街道 | 日光街道(日光道中)・奥州道中 |
| 宿番号 | 6番 |
| 旧国(天保期) | 武蔵国 |
| 現在地 | 埼玉県幸手市南・中・北地区 |
| 開宿 | 元和2年(1616)に人馬継立を命じられた |
| 統計年代 | 天保14年(1843)ごろ |
| 家数 | 962軒 |
| 人口 | 3,937人 |
| 本陣 | 1軒 |
| 脇本陣 | 『日光道中宿村大概帳』に記載なし |
| 旅籠 | 27軒 |
| 問屋場 | 1か所 |
| 前の宿 | 杉戸宿 |
| 次の宿 | 栗橋宿 |
| 主な最寄駅 | 東武日光線 幸手駅 |
家数・人口、本陣・旅籠の数は、天保14年(1843)の『日光道中宿村大概帳』をもとに作成された地域資料に掲載されています。同資料には、脇本陣の記載がありません。幸手市は、城下町に併設された宿場を除くと、幸手宿は千住宿、越ヶ谷宿に次いで日光街道で3番目の規模だったと説明しています。
幸手市域の大部分は中世まで下総国に属し、江戸時代に武蔵国へ編入されました。基本情報表には、天保期の所属である武蔵国を記載しています。
幸手宿は現在のどこにあった?
幸手宿は、現在の幸手市南・中・北地区を通る旧日光街道沿いにありました。旧街道は、幸手駅東口の東側を南北に延びる中央通りと、その北側へ続く道にあたります。
宿場の南端は、倉松川に架かる志手橋付近です。その北側に右馬之助町、久喜町、仲町、荒宿が続き、現在の北1丁目付近まで町場が延びていました。本陣と問屋場は、宿場の中心部にあたる久喜町に置かれていました。
『日光道中宿村大概帳』では、宿場の長さは9町45間、道幅は6間とされています。長さを現在の単位に直すと約1.1kmです。
現在の旧街道沿いは商店街や住宅地になっていますが、当時の道筋をたどれます。
幸手市と幸手市観光協会が公開する「日光街道宿場めぐり 幸手宿」の地図には、宿場の南端から本陣跡、問屋場跡、聖福寺までの史跡が示されています。
幸手宿は1616年に成立した
幸手市によると、元和2年(1616)に幕府から人馬の継立を命じられたことで、幸手は宿場となりました。
人馬継立とは、公用の人や荷物を次の宿場まで運ぶため、宿ごとに人足と馬を交代させる仕組みです。幸手宿には問屋場が置かれ、人馬の手配などを担いました。
ただし、幸手は1616年に新しく造られた町ではありません。日光街道の整備以前から鎌倉街道中道が通り、利根川水系の舟運も利用されていたといわれています。鎌倉時代から戦国時代には奥州へ向かう道が通り、高野の渡もあったため、交通の要地となっていました。
室町時代以降は、古河公方に仕えた一色氏の領地となり、現在の幸手駅周辺に陣屋があったと考えられています。近世の幸手宿は、中世から続く町と交通路を基盤に整備されたとみられます。
幸手宿は街道と舟運が結び付く交通の要地だった
幸手宿の大きな特徴は、複数の街道と河川交通が結び付いていたことです。
宿場の南に位置する旧上高野村では、日光御成道が日光街道に合流しました。宿場の北では筑波道が分かれ、街道の東には権現堂河岸がありました。このように、幸手宿では陸路と水路の両方を利用できました。
日光御成道が幸手宿の南側で合流した
日光御成道は、徳川将軍家が日光東照宮へ社参する際に利用した街道です。本郷追分から岩淵、川口、鳩ヶ谷、大門、岩槻を経て、旧上高野村にあたる現在の幸手市南2丁目付近で日光街道に合流しました。
宮代町史によると、近世の合流地点は現在の志手橋より南の上高野付近でした。日光御成道は上高野付近で西へ折れ、中郷用水を渡った先で日光道中に合流していたとされています。
将軍一行は、合流後に幸手宿を通って日光方面へ向かいました。
宿場の北では筑波道が分岐した
幸手宿の北方では、日光街道から筑波方面へ向かう道が分岐していました。現在の幸手市外国府間に残る安永4年(1775)の道標には、正面に「右つくば道」、側面に「左日光道」と刻まれています。
この道標は幸手市指定史跡で、日光方面と筑波方面への分岐を現在に伝えています。
権現堂河岸の舟運が商業を支えた
江戸時代には利根川の流路が付け替えられ、権現堂川や江戸川を利用した舟運が発達しました。権現堂河岸や関宿向河岸には回船問屋が並び、江戸と上流地域の間を行き交う物資を扱いました。
宿場や河岸には人と物が集まりました。幸手の商人は、街道と舟運の両方を利用できる立地を生かして商売を広げました。
幸手市郷土資料館は、江戸時代から続く幸手の商業が、陸路と水路に恵まれた地の利を基盤に発展したと説明しています。
幸手宿では二と七の日に六斎市が開かれた
幸手宿では、毎月二と七の付く日に六斎市が開かれました。2日、7日、12日、17日、22日、27日の月6回です。
市には近隣の農村から人と品物が集まり、穀物の相場も立てられました。幸手宿は旅人の宿泊や荷物の継立を担うだけでなく、周辺地域の商業地としても栄えました。
天保4年(1833)には、冷害による凶作と米価の高騰を背景に、生活に困った人々が幸手宿と上高野の商家を襲う打ちこわしが起きました。
この打ちこわしは、凶作と米価の高騰が人々の暮らしを圧迫していたことを示しています。
幸手宿の本陣・問屋場・旅籠
天保14年(1843)ごろの幸手宿には、本陣1軒と旅籠27軒がありました。同時期の『日光道中宿村大概帳』には脇本陣の記載がありません。
本陣と問屋場は宿場の中央部に置かれていました。現在、建物は残っていませんが、旧街道沿いに跡地を示す案内があります。
本陣は知久家が務めた
幸手宿の本陣は知久家が務めました。本陣は大名や幕府役人などが宿泊・休憩した施設です。
明治9年(1876)に明治天皇が東北地方を巡幸した際には、江戸時代に本陣を務めた知久家の屋敷が行在所となりました。本陣の建物は残っておらず、現在は跡地に案内板が設置されています。
問屋場は宿場の交通業務を担った
問屋場は、公用の旅人や荷物を次の宿場へ送るため、人足と馬を手配した施設です。人馬の継立を取り仕切り、宿場の交通を支えました。
幸手宿の問屋場跡は、本陣跡の向かい側にあります。建物は残っていませんが、現在は小さな広場として整備され、旧街道に面して案内が設置されています。
旅籠は27軒あった
天保14年(1843)ごろの幸手宿には、一般の旅人が泊まる旅籠が27軒ありました。
幸手宿には街道や舟運を利用する商人も集まり、旅籠は宿場を行き交う人々の宿泊を支えました。
現在の幸手宿に残る史跡と建物
幸手宿では、本陣や問屋場の建物は残っていません。一方、旧街道の道筋に加え、江戸時代末期の商家、寺社建築、道標、一里塚跡などが残っています。
岸本家住宅主屋
岸本家住宅主屋は、宿場南側の中2丁目に残る歴史的建造物です。岸本家は大正時代まで醤油醸造業を営んでいました。
主屋は江戸時代末期に建てられた土蔵造り2階建てで、一部は木造平屋建てです。平成21年(2009)に、幸手市内で初めて国の登録有形文化財に登録されました。
幸手宿本陣跡・問屋場跡
本陣跡と問屋場跡は、旧街道沿いの中1丁目にあります。本陣を務めた知久家の建物は残っていませんが、跡地に案内板があります。
問屋場跡は、旧街道を挟んで本陣跡の向かい側にあります。
幸手一里塚跡
幸手一里塚跡は、日本橋から12里にあたる場所です。かつては街道の両側に塚が築かれ、榎が植えられていました。
現在、塚そのものは残っていません。北2丁目の旧街道沿いに案内があり、日本橋からの距離を伝えています。
聖福寺勅使門
聖福寺は、宿場北側の北1丁目にある浄土宗寺院です。応永年間(1394~1428)に開山し、三代将軍徳川家光の時代に中興したと伝えられています。
江戸時代には、将軍が日光へ向かうときや、例幣使が日光東照宮から戻るときの休憩所として使われました。唐破風を備えた四脚門は、将軍と例幣使以外は通行できなかったとされ、「勅使門」と呼ばれています。
勅使門は幸手市指定有形文化財です。幸手宿と日光社参の関わりを現在に伝えています。
正福寺の日光道中道標と幸手義賑窮餓之碑
正福寺の境内には、日光道中と権現堂河岸の方向を示す道標があります。街道と河岸を行き来する人々の目印になったものです。
境内には、県指定文化財の「幸手義賑窮餓之碑」もあります。天明3年(1783)の浅間山噴火に続く飢饉の際、米や金を出して困窮した人々を救った21人をたたえる碑です。
幸宮神社
幸宮神社は、旧街道沿いの中4丁目にある神社です。大正3年(1914)の合祀を機に幸手町の総鎮守となり、幸宮神社と呼ばれるようになりました。
現在の本殿は文久3年(1863)の建築です。本殿には、竜、中国の故事、四季の農作業などを題材にした彫刻があり、幸手市指定有形文化財となっています。
幸手宿へのアクセス
幸手宿の最寄り駅は、東武日光線の幸手駅です。東口から東へ進むと、旧日光街道の中央通りに出ます。
岸本家住宅主屋、本陣跡、問屋場跡、幸宮神社は、駅から歩いて巡れる範囲にあります。さらに北へ進むと、幸手一里塚跡、正福寺、聖福寺があります。
宿場南端の志手橋から聖福寺まで歩く場合は、見学時間を含めて1時間30分から2時間ほどが目安です。
幸手市観光協会の「日光街道宿場めぐり 幸手宿」では、旧街道沿いの史跡をまとめた地図を公開しています。
前後の宿場
幸手宿は日光街道の6番目の宿場です。江戸方面には杉戸宿、日光方面には栗橋宿が続きます。
杉戸宿 ← 幸手宿 → 栗橋宿
宮代町史では、杉戸宿から幸手宿までが1里35町とされています。『日光道中宿村大概帳』に由来する地域資料では、幸手宿から栗橋宿までが2里3町です。
- 前の宿場:杉戸宿
- 次の宿場:栗橋宿
- 日光街道21宿の一覧を見る
幸手宿に関するよくある質問
最後に、幸手宿の場所と規模、日光御成道の合流地点、本陣跡、現在の見どころについて、よくある疑問をまとめます。
幸手宿は現在のどこですか?
現在の埼玉県幸手市南・中・北地区にありました。
幸手駅東口の東側を南北に通る旧日光街道沿いに、岸本家住宅主屋、本陣跡、問屋場跡、幸宮神社、聖福寺などがあります。
幸手宿は日光街道の何番目の宿場ですか?
日本橋から数えて6番目の宿場です。
千住宿、草加宿、越ヶ谷宿、粕壁宿、杉戸宿、幸手宿の順に続きます。宇都宮宿まで同じ道筋を通る奥州道中の宿場でもありました。
幸手宿はいつできましたか?
幸手市は、元和2年(1616)に幕府から人馬継立を命じられ、幸手宿になったと説明しています。
ただし、幸手にはそれ以前から鎌倉街道中道が通り、河川舟運も利用されていたといわれています。中世以来の町と交通路を基盤に、近世の宿場が整備されたと考えられます。
幸手宿はどれくらいの規模でしたか?
天保14年(1843)ごろには、家数962軒、人口3,937人、本陣1軒、旅籠27軒がありました。同時期の『日光道中宿村大概帳』には、脇本陣の記載はありません。
幸手市は、城下町に併設された宿場を除くと、千住宿、越ヶ谷宿に次ぐ日光街道で3番目の規模だったと説明しています。
幸手宿で日光御成道はどこに合流しましたか?
旧上高野村にあたる現在の幸手市南2丁目付近で、日光街道に合流しました。
宮代町史によると、近世の合流地点は現在の志手橋より南の上高野付近でした。日光御成道は上高野付近で西へ折れ、中郷用水を渡った先で日光道中に合流していたとされています。
日光御成道は、徳川将軍家が日光東照宮へ社参するために利用した街道です。合流後は幸手宿を通り、日光方面へ向かいました。
幸手宿の本陣は残っていますか?
本陣の建物は残っていません。
本陣は知久家が務め、明治9年(1876)には明治天皇の行在所となりました。現在は中1丁目の跡地に案内板があります。
幸手宿には何が残っていますか?
旧日光街道の道筋に加え、国登録有形文化財の岸本家住宅主屋、聖福寺勅使門、幸宮神社本殿の彫刻、正福寺の日光道中道標などが残っています。
本陣と問屋場の建物、一里塚そのものは現存していませんが、それぞれの跡地に案内があります。
参考資料・典拠
本記事の執筆では、幸手市、幸手市観光協会、埼玉県、宮代町立図書館、越谷市デジタルアーカイブ、国立国会図書館などの資料を参照しました。
- 幸手市「幸手宿『宿場あるき』について」
- 幸手市「日光道中と日光御成道」
- 幸手市「幸手市の歴史」
- 幸手市「歴史と文化財」
- 幸手市「『下河辺』と『板碑』から考える中世の幸手」
- 幸手市「企画展『明治天皇幸手行在所-中村家の資料-』」
- 幸手市「聖福寺勅使門」
- 幸手市「日光街道道しるべ」
- 幸手市「幸宮神社本殿の彫刻」
- 幸手市「市内循環バス中央コースで見て回れる文化財・史跡案内」
- 幸手市「令和8年度企画展『日光道中幸手 荒宿 長嶋屋 栄枯盛衰』」
- 幸手市観光協会「日光街道宿場めぐり 幸手宿」
- 埼玉県「日光街道埼玉六宿まち歩きリーフレット」
- 宮代町立図書館/宮代町デジタル郷土資料「日光道中の宿場町と助郷」
- 宮代町立図書館/宮代町デジタル郷土資料「日光・奥州への道」
- 越谷市デジタルアーカイブ「幸手宿打ちこわし騒動」
- 国立国会図書館サーチ『近世交通史料集 6 日光・奥州・甲州道中宿村大概帳』
- コトバンク「幸手」『世界大百科事典』
家数・人口、本陣・旅籠の数、宿場の長さ、道幅は、『日光道中宿村大概帳』をもとに作成された地域資料に掲載されています。
杉戸宿から幸手宿までの距離は、宮代町史の記述に従い1里35町としました。
幸手宿から栗橋宿までの距離(2里3町)を含め、そのほかの『日光道中宿村大概帳』に由来する数値は、地域資料で確認できた範囲を記載しています。

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