中田宿とは?日光街道8番目の宿場と栗橋宿との合宿を解説

中田宿とは?日光街道8番目の宿場と栗橋宿との合宿を解説 宿場

中田宿(なかだじゅく)は、江戸・日本橋から数えて日光街道8番目の宿場です。奥州道中も宇都宮まで同じ道筋を通るため、両街道の宿場として使われました。現在の茨城県古河市に置かれ、利根川を挟んで栗橋宿と向かい合っていました。

宿場があったのは現在の利根川橋付近です。旧宿場の場所は利根川の改修によって河川敷となったため、現在の中田の町並みとは位置が異なります。

中田宿は対岸の栗橋宿と「合宿」の関係にあり、人足や馬を手配して人や荷物を次の宿場へ送る「継立」を毎月15日ずつ交代で担いました。天保14年(1843)ごろには家数69軒、人口403人を数え、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠6軒がありました。

中田宿の基本情報

中田宿は、利根川の北岸に置かれた日光道中8番目の宿場です。所在地と天保期の規模をまとめます。

項目内容
宿名中田宿
読みなかだじゅく
街道日光街道(日光道中)・奥州道中
宿番号8番
旧国(天保期)下総国
現在地茨城県古河市中田地先の利根川河川敷
成立江戸時代初期の日光道中整備に伴い造成
統計年代天保14年(1843)ごろ
家数69軒
人口403人
本陣1軒
脇本陣1軒
旅籠6軒
問屋場1か所
前の宿栗橋宿
次の宿古河宿
最寄駅JR宇都宮線・東武日光線 栗橋駅

家数・人口、本陣・脇本陣・旅籠・問屋場の数は、天保14年(1843)ごろの『日光道中宿村大概帳』に記された数値です。

古河市教育委員会の現地案内板では、家数を118軒とする資料も紹介されています。本記事では、ほかの宿場と基準をそろえるため、『日光道中宿村大概帳』に基づく69軒を掲載しています。

中田宿は現在のどこにあった?

江戸時代の中田宿は、現在の古河市中田地先にあたる利根川河川敷にありました。古河市の「まくらがの里散歩道」でも、江戸時代の宿場跡は現在の河川敷にあると案内されています。

宿場は利根川の水辺から北へ延び、船戸、山の内、仲宿(中町)、上宿(上町)と続いていました。町並みは途中で直角に折れ、全体の長さは4町50間、約530mでした。

現在の中田地区を通る旧日光街道は、江戸時代の宿場と同じ位置ではありません。中田宿は移転を繰り返し、大正から昭和にかけて行われた利根川の改修に伴って、町並みが現在地へ移りました。

中田宿は日光道中の整備に伴って造られた

古河市教育委員会の現地案内板によると、中田宿は江戸幕府が日光道中を整備する過程で造られました。

宿場の造成にあたっては、上中田、下中田、上伊坂などに住んでいた人々が集められました。中田宿は、対岸の栗橋宿とともに宿場の役割を担うよう整備されました。

宿場には本陣、脇本陣、問屋場、旅籠、茶店などが並びました。多くの家は、農業を兼ねていたとされています。

栗橋宿とは「合宿」の関係にあった

中田宿と栗橋宿は、利根川を挟んで向かい合い、「合宿」として一つの宿場の役割を分担していました。

合宿とは、複数の宿場が人馬の継立などを分担する仕組みです。中田宿と栗橋宿では、継立を毎月15日ずつ交代で担いました。

中田宿の家数は69軒で、404軒あった栗橋宿よりも小規模でした。中田宿にも本陣、脇本陣、問屋場、旅籠が置かれ、両宿で業務を分担していました。

中田宿の本陣・脇本陣・旅籠

天保14年(1843)ごろの中田宿には、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠6軒がありました。問屋場も置かれ、人足と馬の手配を担っていました。

本陣は、大名や公家、幕府役人などが宿泊や休憩に利用した施設です。脇本陣は、本陣を補う施設として使われました。

旅籠は一般の旅人が泊まる施設です。中田宿には6軒あり、25軒あった栗橋宿と比べると少ないことがわかります。

江戸時代の本陣や脇本陣などの建物は、現在の町並みでは確認できません。宿場跡そのものが河川敷となっているため、当時の区画をたどることも困難です。

房川渡と日光道中唯一の関所

中田宿の南側には、利根川を渡る房川渡がありました。旅人は船で川を渡り、中田宿と栗橋宿の間を行き来しました。

房川渡には関所も置かれ、正式には「房川渡中田関所」と呼ばれました。関所は栗橋側の利根川河畔にあり、一般には栗橋関所と呼ばれています。

房川渡は栗橋宿と中田宿を結んだ

江戸時代の利根川には橋が架けられていなかったため、通常は船で渡りました。徳川将軍家の日光社参では、船を横につないだ臨時の船橋が架けられました。

房川渡は、大正13年(1924)に利根川橋が完成するまで使われました。渡船は橋の完成と同時に廃止され、現在は施設も残っていません。

房川渡中田関所は日光道中唯一の関所だった

房川渡中田関所は、日光道中で唯一の関所でした。江戸へ入る武器と江戸から出る大名の妻子などを監視しました。

関所は明治2年(1869)に廃止されました。現在、中田側には「房川渡と中田関所跡」の案内板があります。実際の関所は栗橋側にありましたが、案内板では房川渡と関所の歴史を紹介しています。

現在の中田宿周辺の見どころ

江戸時代の宿場跡は河川敷となり、当時の建物や区画は現在の町並みでは確認できません。一方、現在の中田地区を通る旧日光街道沿いには、中田宿の案内板のほか、鶴峯八幡神社、光了寺、松並木跡などがあります。

中田宿案内板

現在の中田地区には、古河市教育委員会が設置した中田宿の案内板があります。案内板が立つ場所は江戸時代の宿場跡そのものではありませんが、旧宿場の位置や栗橋宿との合宿、当時の町並み、現在地へ移転した経緯を確認できます。

鶴峯八幡神社

鶴峯八幡神社は、中田地区の旧日光街道沿いにある神社です。江戸時代には中田宿の守護神として信仰され、利根川の改修に伴って現在地へ移されました。

神社に伝わる中田永代太々神楽は、茨城県指定無形民俗文化財です。起源は明らかではありませんが、享保10年(1725)には近隣の神職によって奉納されたと伝わります。

光了寺

光了寺(こうりょうじ)は、古河市中田にある浄土真宗の寺院です。もとは武蔵国高柳村(現在の久喜市)にあり、高柳寺と呼ばれていました。その後、6世住職の悦信の時代に現在地へ移ったとされています。

寺には、茨城県指定文化財の木造聖徳太子立像があります。静御前ゆかりの寺としても知られ、静御前の守本尊や「蛙蟆龍(あまりょう)の御衣」などを所蔵しています。

松並木跡と一里塚

中田宿から古河宿へ向かう旧日光街道には松並木があり、「中田の松原」と呼ばれていました。現在は松並木跡として案内されています。

街道沿いには、江戸・日本橋から16里にあたる一里塚もありました。古河市の「旧日光街道コース」では、松並木跡と一里塚が見学地点に含まれています。

大善院

大善院(だいぜんいん)は、古河市中田にある修験道当山派の寺院です。境内には、延宝8年(1680)に造られた庚申塔があります。

この庚申塔は、一般的な青面金剛像ではなく、阿弥陀如来を主尊として刻んだ珍しいもので、古河市の有形民俗文化財に指定されています。

中田宿へのアクセス

中田宿周辺へは、栗橋駅(JR宇都宮線・東武日光線)または古河駅(JR宇都宮線)から、古河市循環バス「ぐるりん号」の南コースを利用できます。鶴峯八幡神社と光了寺の最寄りは「中田八幡前」停留所です。

徒歩で旧街道をたどる場合は、栗橋宿から利根川橋を渡って中田地区へ進めます。ただし、江戸時代の中田宿跡は河川敷にあり、現在の道路や町並みとは位置が異なります。

古河市の「旧日光街道コース」は、房川渡、中田宿、鶴峯八幡神社、光了寺、松並木跡、一里塚、古河宿を経て野木神社へ向かう約8kmのコースです。

バスの運行経路や時刻は変更されることがあるため、訪問前に古河市の最新案内を確認してください。

前後の宿場

中田宿は日光街道の8番目の宿場です。江戸方面には利根川対岸の栗橋宿があり、日光方面には城下町でもあった古河宿が続きます。

栗橋宿 ← 中田宿 → 古河宿

前の宿場:栗橋宿
次の宿場:古河宿
日光街道21宿の一覧を見る

中田宿に関するよくある質問

最後に、中田宿の場所や規模、栗橋宿との関係、房川渡、現在の見どころについて、よくある疑問をまとめます。

中田宿は現在のどこですか?

江戸時代の中田宿は、現在の茨城県古河市中田地先にあたる利根川河川敷にありました。

現在の中田の町並みは、大正から昭和にかけて行われた利根川の改修に伴って移転したものです。そのため、江戸時代の宿場跡と現在の旧日光街道は位置が異なります。

中田宿は日光街道の何番目の宿場ですか?

江戸・日本橋から数えて8番目の宿場です。

江戸方面から、栗橋宿、中田宿、古河宿の順に続きます。奥州道中も宇都宮宿まで同じ道筋を通るため、中田宿は奥州道中の宿場でもありました。

中田宿はどれくらいの規模でしたか?

天保14年(1843)ごろには、家数69軒、人口403人、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠6軒がありました。

町並みの長さは4町50間、約530mでした。宿場の家々の多くは、農業を兼ねていたとされています。

中田宿と栗橋宿はどのような関係でしたか?

両宿は「合宿」の関係にあり、一つの宿場の役割を分担していました。

中田宿と栗橋宿は、宿場の主な仕事である人馬の継立を毎月15日ずつ交代で担いました。

中田宿跡が河川敷にあるのはなぜですか?

中田宿は、もともと利根川の水辺に造られていました。その後、大正から昭和にかけて行われた利根川の改修に伴って町並みが移転し、旧宿場の場所が河川敷となりました。

房川渡とは何ですか?

栗橋宿と中田宿の間を流れる利根川の渡船場です。江戸時代は通常、船で川を渡りました。

徳川将軍家の日光社参では、臨時の船橋が架けられました。渡船は大正13年(1924)に利根川橋が完成するまで使われ、橋の完成と同時に廃止されました。

中田宿には何が残っていますか?

江戸時代の本陣、脇本陣、旅籠、問屋場などの建物は、現在の町並みでは確認できません。

現在の中田地区には、中田宿の案内板、「房川渡と中田関所跡」の案内板、鶴峯八幡神社、光了寺、松並木跡、大善院などがあります。

参考資料・典拠

本記事の執筆では、古河市、古河市教育委員会、古河市観光協会、久喜市、国立国会図書館などの資料を参照しました。

  • 古河市「まくらがの里散歩道 スタンプラリー」
  • 古河市「県指定文化財 中田永代太々神楽」
  • 古河市「統計古河 5 教育・文化」
  • 古河市「大善院」
  • 古河市「古河市循環バス ぐるりん号」
  • 古河市観光協会「鶴峯八幡宮」
  • 古河市観光協会「光了寺」
  • 久喜市「日光道中栗橋宿・栗橋関所」
  • 久喜市「第88回 房川の渡しと船橋」
  • 久喜市「第31回 時代の転換を象徴する利根川への架橋」
  • 久喜市「第16回 栗橋関所」
  • 久喜市「県指定 栗橋関跡」
  • 国立国会図書館サーチ『近世交通史料集 6 日光・奥州・甲州道中宿村大概帳』

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