栗橋宿(くりはしじゅく)は、日光街道・奥州道中で、江戸・日本橋から数えて7番目の宿場です。現在の埼玉県久喜市にあたり、JR宇都宮線と東武日光線の栗橋駅から歩いて旧街道をたどれます。
栗橋宿の大きな特徴は、利根川の渡船場である房川渡と、日光道中で唯一の関所があったことです。対岸の中田宿とは「合宿」を構成し、両宿が交代で宿駅の役割を担いました。
天保14年(1843)ごろには家数404軒、人口1,741人を数え、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒がありました。現在、本陣や関所の建物は残っていませんが、栗橋関所址碑、西本陣跡、房川渡跡、八坂神社、深廣寺などから宿場の歴史をたどれます。
栗橋宿の基本情報
栗橋宿は、利根川沿いに設けられた日光道中7番目の宿場です。所在地と天保期の規模をまとめます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 宿名 | 栗橋宿 |
| 読み | くりはしじゅく |
| 街道 | 日光街道(日光道中)・奥州道中 |
| 宿番号 | 7番 |
| 旧国(天保期) | 武蔵国 |
| 現在地 | 埼玉県久喜市栗橋北2丁目~栗橋東3丁目付近 |
| 成立 | 慶長年間(1596~1615)に開発されたと伝わる |
| 統計年代 | 天保14年(1843)ごろ |
| 家数 | 404軒 |
| 人口 | 1,741人 |
| 本陣 | 1軒 |
| 脇本陣 | 1軒 |
| 旅籠 | 25軒 |
| 問屋場 | 1か所 |
| 前の宿 | 幸手宿 |
| 次の宿 | 中田宿 |
| 最寄駅 | JR宇都宮線・東武日光線 栗橋駅 |
家数・人口、本陣・脇本陣・旅籠・問屋場の数は、天保14年(1843)ごろの『日光道中宿村大概帳』に記された数値です。久喜市教育委員会の「栗橋地区文化財お散歩マップ解説集」でも確認できます。
現在の栗橋地区は、江戸時代初期まで下総国に属していました。その後、利根川の流路変更に伴い、寛永年間から正保年間(1624~1648)にかけて武蔵国へ編入されました。そのため、基本情報表には天保期の所属である武蔵国を記載しています。
栗橋宿は現在のどこにあった?
栗橋宿は、現在の久喜市栗橋北2丁目から栗橋東3丁目付近を通る旧日光街道沿いにありました。最寄り駅は、JR宇都宮線と東武日光線が乗り入れる栗橋駅です。
栗橋駅東口から旧街道へ進むと、八坂神社、西本陣跡、房川渡跡、栗橋関跡などを巡れます。宿場の北端にあたる利根川沿いには、房川渡と栗橋関所が置かれていました。
『日本歴史地名大系』によると、宿内の町並みは南北10町30間でした。現在の単位では約1.15kmにあたります。
栗橋宿は、利根川の洪水による被害をたびたび受けました。発掘調査では、洪水の堆積層や火災の跡が重なって見つかっています。これらの成果から、町が災害のたびに復興してきたことが分かります。
栗橋宿は慶長年間に開発された
久喜市の資料によると、栗橋宿は慶長年間(1596~1615)に開発されたと伝わります。
開発にあたったのは、下総国栗橋村の池田鴨之介と並木五郎平です。2人は代官・伊奈忠次の指揮を受け、上河辺新田を開墾したとされています。
新たに開かれた町は「新栗橋町」と呼ばれました。これに対し、もとの下総国栗橋村は「元栗橋」と呼ばれるようになりました。元栗橋は、現在の茨城県五霞町元栗橋にあたります。
池田鴨之介は元和年間から寛永初頭にかけて本陣役を務め、顕正寺の開基になったとされています。
並木五郎平は宿場の上町に住み、その子孫は後に栗橋宿の名主を務めたと伝わります。
栗橋宿には日光道中唯一の関所があった
栗橋宿には、利根川の渡船場と関所がありました。江戸から日光へ向かう旅人は、宿場の北端で関所を通り、房川渡の船で対岸の中田宿へ渡りました。
栗橋関所の正式名称は房川渡中田関所
一般に「栗橋関所」と呼ばれていますが、正式名称は「房川渡中田関所」です。渡河地点に設けられた関所には対岸の地名を冠する慣例があり、「中田」の名が付きました。
寛永元年(1624)には、関所の警備を担う番士が幕府から任命され、関所の近くに定住したと伝わります。以後、4家の番士が交代で勤務しました。
関所では、江戸へ入る武器と江戸から出る大名の妻子などを監視しました。いわゆる「入り鉄砲に出女」です。
栗橋関所は明治2年(1869)に廃止されました。建物や遺構は残っていませんが、番士を務めた家に伝わる文書や絵図から、当時の構造や業務を知ることができます。
房川渡では船で利根川を渡った
房川渡は、栗橋宿と対岸の中田宿を結んだ渡船場です。江戸時代の利根川には橋が架けられていなかったため、通常は船で渡りました。
房川渡では、幕府の御用船のほか、旅人や荷物を運ぶ茶船、馬を運ぶ馬船が使われていました。
徳川将軍家の日光社参では、大規模な行列を渡すため、船を横につないだ臨時の船橋が架けられました。天保14年(1843)の社参では、高瀬舟50隻以上を連結し、その上に竹や木材を敷いて橋を造ったことが記録されています。
中田宿とは合宿を構成していた
栗橋宿と中田宿は、利根川を挟んで向かい合い、「合宿」と呼ばれる一組の宿駅を構成していました。
合宿とは、複数の宿場が人馬の継立などを分担する仕組みです。両宿では、半月ごとに継立の担当を交代しました。
栗橋宿の本陣・脇本陣・旅籠
天保14年(1843)ごろの栗橋宿には、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒がありました。問屋場と高札場も置かれ、宿場の運営を支えていました。
本陣や脇本陣の建物は現存していません。一方、利根川堤防強化事業に伴う発掘調査では、建物跡や宿場で使われた生活用品が見つかっています。
本陣と脇本陣が置かれた
本陣は、大名、公家、幕府役人などが宿泊・休憩した施設です。脇本陣は本陣に次ぐ格式を持ち、主に武家などが利用しました。
栗橋宿の開発に関わった池田鴨之介は、元和年間から寛永初頭にかけて本陣役を務めたとされています。天保期には、本陣と脇本陣が1軒ずつ置かれていました。
久喜市では、栗橋北2丁目にある遺跡を「栗橋宿本陣跡」「栗橋宿西本陣跡」として登録しています。「西本陣跡」は遺跡の名称で、調査範囲には脇本陣と町屋が並んでいたと推定されています。
問屋場が人馬の継立を取り仕切った
問屋場は、公用で移動する人や荷物を次の宿場へ送るため、人足と馬を手配した施設です。宿場の人馬だけでは足りない場合、助郷村から集める人馬も調整しました。
宿場には、幕府の法令や禁令を掲げる高札場もありました。問屋場が輸送を担い、高札場が法令を知らせる役割を果たしました。
旅籠は25軒あった
天保14年(1843)ごろの栗橋宿には、一般の旅人が泊まる旅籠が25軒ありました。
栗橋宿は房川渡と栗橋関所を備え、宿泊地であると同時に、利根川を渡る人や物の移動を支える拠点でもありました。
現在の栗橋宿に残る史跡と見どころ
現在、栗橋関所や本陣の建物は残っていません。一方、旧街道沿いとその周辺には、関所址碑、西本陣跡、宿場の鎮守、宿場を開いた人物ゆかりの寺院などがあります。
栗橋関跡・栗橋関所址碑
栗橋関所の跡地は、「栗橋関跡」として埼玉県の旧跡に指定されています。跡地は利根川の改修によって河川敷内となり、遺構は残っていません。
大正13年(1924)には、利根川橋の開通を記念して「栗橋関所址」碑が建てられました。碑の題字は、徳川宗家第16代当主の徳川家達が揮毫したものです。
現在、関所址碑は利根川堤防の強化事業に伴い、栗橋北2丁目5番19号の旧栗橋町商工会館跡地へ仮移転しています。そのため、現在の碑の位置はかつて関所があった場所とは異なります。
房川渡跡
房川渡跡は、栗橋宿と中田宿を結んだ渡船場の跡です。栗橋関所を通った旅人は、ここから船で利根川を渡りました。
渡船場の施設は残っていませんが、利根川堤防付近から、栗橋宿と対岸の中田宿を結んでいた位置関係を確認できます。
栗橋宿西本陣跡
栗橋宿西本陣跡は、栗橋北2丁目にある遺跡です。建物は残っていませんが、発掘調査では、脇本陣と町屋があったとみられる区画から、建物跡、溝、杭列などが見つかりました。
軟弱な地盤を補強する基礎のほか、人工池、井戸、木製品、陶磁器なども確認されています。さらに、洪水の堆積層や火災後の廃棄物を埋めた穴も見つかりました。これらの成果から、栗橋宿が災害と復興を繰り返した様子が明らかになっています。
八坂神社
八坂神社は栗橋宿の鎮守です。江戸時代には牛頭天王社と呼ばれていました。
慶長年間の洪水で、鯉と亀に守られた神輿が元栗橋から流れ着き、その神輿を祀ったことに始まると伝えられています。拝殿前には、この伝承にちなみ、波間に亀が彫られた一対の狛鯉像があります。
八坂神社に伝わる江戸時代の神輿は、久喜市指定有形民俗文化財です。
深廣寺
深廣寺(じんこうじ)は、元和元年(1615)に並木五郎平が開基となり、無涯閑栄上人が開山した浄土宗寺院です。ここでいう開基は寺院の創建を支えた人物、開山は最初の住職を指します。境内には、栗橋宿の開発に関わった並木五郎平の墓があります。
深廣寺には、大型の六角名号塔が21基並んでいます。六角名号塔、木造単信上人椅像、並木五郎平の墓は、いずれも久喜市の文化財に指定されています。
炮烙地蔵
炮烙地蔵(ほうろくじぞう)は、宝永7年(1710)の銘を持つ石仏です。関所破りで火あぶりの刑に処された人を供養するために建てられたという伝承があります。
ただし、これは地域に伝わる由来です。特定の処刑記録と結び付けて史実として断定することはできません。
静御前の墓
栗橋駅東口の近くには、静御前の墓と伝わる史跡があります。静御前が源義経を追って奥州へ向かう途中、義経の死を知り、悲しみのあまり栗橋で亡くなったという地域の伝承に基づくものです。
現在の墓碑は、享和3年(1803)に勘定奉行・関東郡代の中川忠英が建てました。
栗橋宿へのアクセス
栗橋宿の最寄り駅は、JR宇都宮線・東武日光線の栗橋駅です。東口から静御前の墓までは、徒歩約1分です。
駅からは、静御前の墓、八坂神社、房川渡跡、栗橋関跡、西本陣跡、深廣寺などを歩いて巡れます。久喜市の「栗橋地区文化財お散歩マップ」では、約4.5km、徒歩約1時間のコースとして紹介されています。
関所址碑は仮移転中のため、訪問前に久喜市の最新案内で場所を確認してください。
前後の宿場
栗橋宿は日光街道の7番目の宿場です。江戸方面には幸手宿、日光方面には利根川対岸の中田宿が続きます。
平凡社の『日本歴史地名大系』では、幸手宿から栗橋宿までの距離は2里3町とされています。
幸手宿 ← 栗橋宿 → 中田宿
前の宿場:幸手宿
次の宿場:中田宿
日光街道21宿の一覧を見る
栗橋宿に関するよくある質問
最後に、栗橋宿の場所や規模、栗橋関所、房川渡、中田宿との関係について、よくある疑問をまとめます。
栗橋宿は現在のどこですか?
現在の埼玉県久喜市栗橋北2丁目から栗橋東3丁目付近にありました。
JR宇都宮線・東武日光線の栗橋駅東口から、旧日光街道沿いの八坂神社、西本陣跡、房川渡跡、栗橋関跡などを歩いて巡れます。
栗橋宿は日光街道の何番目の宿場ですか?
江戸・日本橋から数えて7番目の宿場です。
千住宿、草加宿、越ヶ谷宿、粕壁宿、杉戸宿、幸手宿、栗橋宿の順に続きます。奥州道中も宇都宮宿まで同じ道筋を通るため、栗橋宿は奥州道中の宿場でもありました。
栗橋宿はいつできましたか?
慶長年間(1596~1615)に開発されたと伝わります。
下総国栗橋村の池田鴨之介と並木五郎平が、代官・伊奈忠次の指揮を受けて上河辺新田を開墾したとされています。新たに開かれた町は新栗橋町、もとの栗橋村は元栗橋と呼ばれるようになりました。
栗橋宿はどれくらいの規模でしたか?
天保14年(1843)ごろには、家数404軒、人口1,741人、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒がありました。
宿内の町並みは南北10町30間で、現在の単位では約1.15kmにあたります。
栗橋関所は何を取り締まっていましたか?
江戸へ入る武器と江戸から出る大名の妻子などを監視しました。いわゆる「入り鉄砲に出女」です。
栗橋関所では4家の番士が交代で勤務し、明治2年(1869)に廃止されるまで利根川の渡河地点を監視しました。
栗橋関所は現在も残っていますか?
関所の建物や遺構は残っていません。
大正13年(1924)に建てられた「栗橋関所址」碑がありますが、現在は利根川堤防の強化事業に伴い、栗橋北2丁目5番19号へ仮移転しています。
房川渡とは何ですか?
栗橋宿と中田宿の間を流れる利根川の渡船場です。通常は船で渡り、徳川将軍家の日光社参では臨時の船橋が架けられました。
栗橋宿と中田宿はどのような関係でしたか?
両宿は「合宿」と呼ばれる一組の宿駅を構成し、人馬の継立を半月ごとに交代しました。
栗橋宿には何が残っていますか?
栗橋関所址碑、西本陣跡、房川渡跡、八坂神社、深廣寺、炮烙地蔵などがあります。
本陣、脇本陣、関所、渡船場の建物は現存していません。跡地や石碑、発掘調査の成果から宿場の歴史をたどれます。
参考資料・典拠
本記事の執筆では、久喜市、久喜市教育委員会、埼玉県、埼玉県埋蔵文化財調査事業団、国立国会図書館などの資料を参照しました。
- 久喜市「日光道中栗橋宿・栗橋関所」
- 久喜市「栗橋地区文化財お散歩マップ解説集」
- 久喜市「日光街道宿場めぐり 栗橋宿」
- 久喜市「県指定 栗橋関跡」
- 久喜市「第16回 栗橋関所」
- 久喜市「第88回 房川の渡しと船橋」
- 久喜市「市指定 池田鴨之介の墓」
- 久喜市「市指定 並木五郎平の墓」
- 久喜市「第33回 単信上人の祈りが込められた六角名号塔」
- 久喜市「第40回 狛犬ならぬ狛鯉の像がある八坂神社」
- 久喜市「第22回 関所破りの伝承を伝える炮烙地蔵」
- 久喜市「市指定 静御前の墓」
- 久喜市「埋蔵文化財包蔵地一覧」
- 久喜市「指定文化財一覧」
- 久喜市「市内の名所や旧跡を訪ねる歴史散歩を楽しみませんか」
- 埼玉県「日光街道埼玉六宿まち歩きリーフレット」
- 埼玉県埋蔵文化財調査事業団「栗橋宿西本陣跡Ⅱ」
- 平凡社『日本歴史地名大系』「栗橋宿」
- 国立国会図書館サーチ『近世交通史料集 6 日光・奥州・甲州道中宿村大概帳』


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