小金井宿とは?日光街道の14番目の宿場!小金井一里塚・慈眼寺を解説

小金井宿とは?日光街道の14番目の宿場!小金井一里塚・慈眼寺を解説 宿場

小金井宿(こがねいしゅく)は、江戸・日本橋から数えて日光街道の14番目にあたる宿場です。現在の栃木県下野市小金井にあり、奥州道中も宇都宮宿まで同じ道筋を通るため、両街道を行き交う人々に利用されました。

天保14年(1843)ごろには家数165軒、人口767人を数え、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠43軒がありました。

徳川将軍の日光社参では、宿内の慈眼寺が休憩所となり、境内に御殿所が設けられました。また、宿場には俳諧を楽しむ人々がおり、その歴史を伝える句額や俳諧碑が残されています。

現在の小金井宿を代表する史跡が、小金井一里塚です。日本橋から22里の地点に築かれた一里塚で、街道を挟んで2基の塚が残り、国の史跡に指定されています。

小金井宿の基本情報

小金井宿の所在地や規模など、基本情報をまとめます。

項目内容
宿名小金井宿
読み方こがねいしゅく
街道日光街道・奥州道中
宿番号14番
旧国下野国
現在地栃木県下野市小金井周辺
家数165軒
人口767人
本陣1軒
脇本陣1軒
旅籠43軒
問屋場1か所
前の宿新田宿
次の宿石橋宿
最寄駅JR宇都宮線・小金井駅

家数や人口、本陣、脇本陣、旅籠の数は、天保14年(1843)ごろの『日光道中宿村大概帳』に基づいています。

小金井宿の場所

小金井宿は、現在の栃木県下野市小金井にありました。宿場跡は現在の国道4号沿いに広がり、JR宇都宮線の小金井駅から徒歩でたどることができます。

『日光道中宿村大概帳』によると、宿場の町並みは南北に6町42間ありました。現在の距離に換算すると約730mです。

宿場は江戸側から下町・中町・上町に分かれ、本陣や脇本陣、問屋場は宿場の中心部に置かれていました。

宿間距離は、前の新田宿まで29町、次の石橋宿まで1里半と記録されています。

新田宿 ← 小金井宿 → 石橋宿

小金井宿は17世紀に宿駅として整えられた

小金井周辺の集落は、もともと現在の街道沿いとは異なる場所にあったとされています。

『日光道中略記』によると、元和年間(1615~1624)に日光街道が開かれると、人家が次第に街道沿いへ移りました。その後、延宝9年(1681)には宿駅として数えられるようになったと記されています。

こうして小金井宿は、江戸と日光を結ぶ日光街道の宿場として発展していきました。

小金井宿の本陣・脇本陣・旅籠

天保14年(1843)ごろの小金井宿には、家数165軒、人口767人が記録されています。

本陣と脇本陣は各1軒あり、一般の旅人が利用する旅籠は43軒ありました。また、人足や馬の手配を行う問屋場も置かれていました。

本陣は、大名や幕府役人などが宿泊・休憩する施設です。文化6年(1809)の記録では、大越忠右衛門が小金井宿の本陣を務めていました。

現在、本陣の建物は残っていませんが、旧街道沿いに本陣跡があります。

慈眼寺は将軍の日光社参の休憩所だった

慈眼寺は、小金井宿の旧日光街道沿いにある寺院です。

江戸時代には、徳川将軍が日光東照宮へ参詣する日光社参の際に休憩所として使用されました。下野市の資料によると、境内には将軍のための御殿所が設けられていました。

慈眼寺には、小金井宿の人々が句会を開いていたことを伝える句額も残されています。宿場と日光社参の関係だけでなく、当時の文化を伝える場所でもあります。

小金井宿では俳諧が親しまれていた

江戸時代の小金井宿では、俳諧を楽しむ人々がいました。

小金井宿にあった旅籠「蔵田屋」の跡地には、文化4年(1807)に建立された俳諧碑が残っています。碑には、慈眼寺の住職や江戸の俳人、地元の人々の句が刻まれています。

慈眼寺にも宿場の人々による句額が残っており、これらは小金井宿で俳諧が親しまれていたことを伝えています。

現在の小金井宿周辺に残る見どころ

小金井宿では、宿場時代の建物の多くが失われています。一方、小金井一里塚や慈眼寺、俳諧碑などが残り、江戸時代の日光街道と宿場の歴史をたどることができます。

小金井一里塚

小金井一里塚は、江戸・日本橋から22里の地点に築かれた日光街道の一里塚です。

一里塚とは、街道の距離を示すため、おおむね1里ごとに道の両側へ築かれた塚です。

小金井一里塚では、街道を挟んで2基の塚が残っています。発掘調査によって、築造当初は一辺約12mの方形だったことが分かっています。

また、発掘調査では、異なる3時期の旧日光街道の路面と側溝も確認されています。

2基の塚が良好な状態で残っていることから、大正11年(1922)に国の史跡へ指定されました。日光道中の一里塚では、唯一の国指定史跡です。

慈眼寺

慈眼寺は、小金井宿の中心部にある寺院です。

江戸時代には徳川将軍の日光社参の休憩所となり、境内に御殿所が設けられていました。

また、宿場の人々が句会を開いていたことを伝える句額も残っています。小金井宿と日光社参、当時の文化を知ることができる場所です。

金井神社

金井神社は、小金井宿の中心部に鎮座する神社です。

近世には小金井宿の鎮守でした。宝暦4年(1754)に現在地へ移され、その後、北辰社、星宮神社と名称を変え、明治5年(1872)に金井神社となりました。

現在も地域の祭礼である八坂祭が行われています。

俳諧碑

小金井宿には、文化4年(1807)に建てられた俳諧碑が残っています。

小金井宿にあった旅籠「蔵田屋」の跡地に建立されたもので、慈眼寺の住職や江戸の俳人、地元の人々の句が刻まれています。

宿場の人々の文化活動を伝える資料として、下野市の文化財に指定されています。

旧日光街道沿いの町家

小金井宿には、かつて80軒を超える商家があったとされていますが、現在はその多くが失われています。

旧日光街道沿いには、江戸時代後期から「橘屋」の屋号で質屋を営んだ古島家の住宅(古島正一家住宅)など、宿場の歴史を伝える建物が残っています。

下野市の『歴史的風致維持向上計画』でも、小金井宿の歴史を伝える建造物として取り上げられています。

小金井宿へのアクセス

小金井宿の最寄駅は、JR宇都宮線の小金井駅です。

駅から旧日光街道沿いの宿場跡まで徒歩で向かうことができます。

国指定史跡の小金井一里塚は、小金井駅から約0.5km、徒歩約10分です。そこから旧街道を北へ進むと、慈眼寺や金井神社、俳諧碑、本陣跡などをたどることができます。

旧宿場の範囲は比較的まとまっており、徒歩で史跡を巡りやすい場所です。

小金井宿の前後の宿場

小金井宿は、日光街道の14番目の宿場です。江戸方面には新田宿、日光方面には石橋宿があります。

新田宿 ← 小金井宿 → 石橋宿

前の宿場:新田宿
次の宿場:石橋宿
日光街道21宿の一覧を見る

小金井宿に関するよくある質問

小金井宿の場所や規模、小金井一里塚、日光社参との関係について、よくある疑問をまとめます。

小金井宿は現在のどこにありましたか?

現在の栃木県下野市小金井周辺です。

宿場跡は現在の国道4号沿いに広がり、JR宇都宮線の小金井駅から徒歩でたどることができます。

小金井宿は日光街道の何番目の宿場ですか?

江戸・日本橋から数えて14番目の宿場です。

江戸方面から、小山宿、新田宿、小金井宿、石橋宿の順に続きます。

小金井宿はいつ成立しましたか?

『日光道中略記』によると、元和年間(1615~1624)に日光街道が開かれると、人家が次第に街道沿いへ移り、延宝9年(1681)には宿駅として数えられるようになったとされています。

そのため、小金井宿は街道沿いへの移住を経て、17世紀に宿駅として整えられたと考えられます。

小金井宿はどのくらいの規模でしたか?

天保14年(1843)ごろには、家数165軒、人口767人でした。

本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠43軒、問屋場1か所が置かれていました。

小金井一里塚とは何ですか?

江戸・日本橋から22里の地点に築かれた日光街道の一里塚です。

街道の両側に築かれた2基の塚が残っており、日光道中の一里塚では唯一、国の史跡に指定されています。

小金井宿と徳川将軍の日光社参にはどのような関係がありますか?

宿内の慈眼寺が、徳川将軍の日光社参の際に休憩所として使われました。

境内には将軍のための御殿所が設けられており、小金井宿と日光社参との関わりを伝えています。

小金井宿では現在何を見学できますか?

小金井一里塚、慈眼寺、金井神社、俳諧碑、本陣跡などをたどることができます。

旧街道沿いには歴史的な建物も一部残っており、宿場の歴史を歩きながら知ることができます。

参考資料・典拠

本記事の執筆では、以下の資料を参照しました。

  • 下野市『下野市文化財保存活用地域計画』
  • 下野市『下野市歴史的風致維持向上計画』
  • 下野市「小金井一里塚」
  • 下野市「下野市の指定文化財」
  • 町史編さん委員会 編『図説国分寺町の歴史』国分寺町、2000年
  • 『日光道中略記』
  • 『日光道中分間延絵図』
  • 児玉幸多校訂『近世交通史料集 6 日光・奥州・甲州道中宿村大概帳』
  • 平凡社『日本歴史地名大系 栃木県の地名』

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