石橋宿とは?日光街道の15番目の宿場!歴史・本陣跡・開雲寺を解説

石橋宿とは?日光街道の15番目の宿場!歴史・本陣跡・開雲寺を解説 宿場

石橋宿(いしばししゅく)は、江戸・日本橋から数えて日光街道の15番目にあたる宿場です。現在の栃木県下野市石橋にあり、奥州道中も宇都宮宿まで同じ道筋を通るため、日光街道・奥州道中の宿場として利用されました。

天保14年(1843)ごろには家数79軒、人口414人を数え、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠30軒がありました。

宿内の開雲寺は、徳川将軍の日光社参の際に休憩所として使われた寺院です。境内には、将軍のための御殿所が設けられていました。

現在は宿場時代の建物の多くが失われていますが、開雲寺や下石橋一里塚などから、日光街道と石橋宿の歴史をたどることができます。

石橋宿の基本情報

石橋宿の所在地や規模など、基本情報をまとめます。

項目内容
宿名石橋宿
読み方いしばししゅく
街道日光街道・奥州道中
宿番号15番
旧国下野国
現在地栃木県下野市石橋周辺
家数79軒
人口414人
本陣1軒
脇本陣1軒
旅籠30軒
問屋場2か所
前の宿小金井宿
次の宿雀宮宿
最寄駅JR宇都宮線・石橋駅

家数や人口、本陣、脇本陣、旅籠などの数は、天保14年(1843)ごろの『日光道中宿村大概帳』に基づいています。

石橋宿の場所

石橋宿は、現在の栃木県下野市石橋にありました。旧日光街道は現在の国道4号に重なる部分が多く、JR宇都宮線の石橋駅西側を南北に通っています。

『日光道中宿村大概帳』によると、宿場の町並みは南北に5町28間ありました。現在の距離に換算すると約600mです。

宿場の中ほどには本陣と脇本陣があり、中町には高札場が置かれていました。上町と下町にはそれぞれ問屋場があり、人馬の継立を行っていました。

宿間距離は、前の小金井宿まで1里半、次の雀宮宿まで1里半5町と記録されています。

小金井宿 ← 石橋宿 → 雀宮宿

石橋宿は元和3年に宿場が置かれたとされる

下野市の歴史年表では、元和3年(1617)に江戸幕府によって日光街道が整備され、小金井と石橋に宿場が置かれたとされています。

日光街道は、江戸と日光を結ぶ街道として一般の旅人や大名などに利用されました。また、徳川将軍が日光東照宮を参詣する日光社参にも使われています。

石橋宿は小金井宿と雀宮宿の間に位置し、人や荷物を次の宿場へ送り継ぐ役割を担いました。

石橋宿の本陣・脇本陣・旅籠

天保14年(1843)ごろの石橋宿には、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠30軒がありました。

本陣と脇本陣はいずれも宿場の中ほどにあり、門と玄関を備えていました。本陣の建坪は118坪、脇本陣は148坪と記録されています。

旅籠30軒の内訳は、大旅籠6軒、中旅籠9軒、小旅籠15軒でした。

また、上町と下町には問屋場が1か所ずつ置かれていました。問屋場では人足や馬を手配し、人や荷物を次の宿場へ送り継いでいました。

『日光道中略記』によると、石橋宿の名主・本陣・問屋を務めた人々は、宇都宮氏の支城だった多功城の城主に仕えていた旧臣とされています。

開雲寺は将軍の日光社参の休憩所だった

開雲寺は、石橋宿の旧日光街道沿いにある寺院です。

江戸時代には、徳川将軍の日光社参の際に休憩所として使われました。境内には、将軍のための御殿所が設けられていました。

日光社参では大勢の一行が街道を往来したため、その移動を支える宿場にも多くの人々が集まりました。小金井宿と石橋宿も、日光社参の際にはにぎわったとされています。

現在の開雲寺は真言宗智山派の寺院で、山号・院号を含めて「石橋山阿弥陀院開雲寺」と称します。

幕末には石橋宿で打ちこわしが起きた

慶応3年(1867)には、石橋宿と近隣の下古山村で打ちこわしが起きました。

その翌年には明治時代を迎え、宿場を取り巻く交通環境も次第に変化していきます。

明治18年(1885)に鉄道が開通して石橋駅が設けられると、鉄道を利用した物流が発達しました。特に干瓢の取引が盛んになり、石橋は県内産干瓢の主要な集散地として発展しました。

現在の石橋宿周辺に残る見どころ

現在の石橋宿では、宿場時代の町並みの多くが失われています。一方、開雲寺や下石橋一里塚などが残り、日光街道と宿場の歴史を伝えています。

開雲寺

開雲寺は、石橋宿の旧日光街道沿いにある寺院です。

江戸時代には徳川将軍の日光社参の休憩所となり、境内に御殿所が設けられていました。

石橋宿と日光社参との関わりを伝える場所の一つです。

下石橋一里塚

下石橋一里塚は、石橋宿の南に残る日光街道の一里塚です。

江戸・日本橋から23里の地点に築かれたもので、現在は西側の塚が残っています。

小金井宿付近には22里目の小金井一里塚も残っており、下野市内では22里目と23里目の一里塚を続けて見ることができます。

下野市では、下石橋一里塚を日光街道に関する文化財として位置づけ、調査や保存を進めています。

本陣・脇本陣跡

石橋宿では、宿場の中ほどに本陣と脇本陣が置かれていました。

『日光道中宿村大概帳』によると、本陣は118坪、脇本陣は148坪で、どちらも門と玄関を備えていました。

建物は現存していませんが、本陣と脇本陣が置かれていた位置は旧街道沿いにあたります。

石橋宿へのアクセス

石橋宿の最寄駅は、JR宇都宮線の石橋駅です。

駅西口から西へ進むと旧日光街道に出ます。宿場跡は駅から徒歩でたどることができ、開雲寺も旧街道沿いにあります。

下石橋一里塚は宿場の中心部より南に位置しています。旧日光街道を小金井宿方面へたどる場合は、あわせて立ち寄ることができます。

石橋宿の前後の宿場

石橋宿は、日光街道の15番目の宿場です。江戸方面には小金井宿、日光方面には雀宮宿があります。

小金井宿 ← 石橋宿 → 雀宮宿

前の宿場:小金井宿
次の宿場:雀宮宿
日光街道21宿の一覧を見る

石橋宿に関するよくある質問

石橋宿の場所や規模、開雲寺、下石橋一里塚について、よくある疑問をまとめます。

石橋宿は現在のどこにありましたか?

現在の栃木県下野市石橋周辺です。

JR宇都宮線の石橋駅西側を通る旧日光街道沿いに宿場が形成されていました。

石橋宿は日光街道の何番目の宿場ですか?

江戸・日本橋から数えて15番目の宿場です。

江戸方面から、小金井宿、石橋宿、雀宮宿の順に続きます。

石橋宿はいつ成立しましたか?

下野市の歴史年表では、元和3年(1617)に江戸幕府によって日光街道が整備され、小金井と石橋に宿場が置かれたとされています。

石橋宿はどのくらいの規模でしたか?

天保14年(1843)ごろには、家数79軒、人口414人でした。

本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠30軒があり、上町と下町には問屋場が1か所ずつ置かれていました。

石橋宿と徳川将軍の日光社参にはどのような関係がありますか?

宿内の開雲寺が、徳川将軍の日光社参の際に休憩所として使われました。

境内には、将軍のための御殿所が設けられていました。

下石橋一里塚とは何ですか?

江戸・日本橋から23里の地点に築かれた日光街道の一里塚です。

現在は西側の塚が残っており、下野市では調査や保存が進められています。

石橋宿では現在何を見学できますか?

開雲寺、下石橋一里塚、本陣・脇本陣跡などをたどることができます。

開雲寺は徳川将軍の日光社参との関わりを伝える寺院で、下石橋一里塚は日光街道の姿を伝える遺構です。

参考資料・典拠

本記事の執筆では、以下の資料を参照しました。

  • 下野市『下野市文化財保存活用地域計画』
  • 下野市『下野市歴史的風致維持向上計画』
  • 下野市文化財バーチャルミュージアム「下野市歴史年表」
  • 下野市文化財バーチャルミュージアム「日光街道関連文化財群めぐり」
  • 『日光道中略記』
  • 『日光道中宿村大概帳』
  • 児玉幸多校訂『近世交通史料集 6 日光・奥州・甲州道中宿村大概帳』
  • 平凡社『日本歴史地名大系 栃木県の地名』
  • 『石橋町史』

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